「とうとう、負けてしまいましたね」

投了の局面を見下ろして久賀は言った。

「先生のミスじゃないですか」

「ミスはしましたけど、そこをちゃんと咎められるようになったのは、古関さんの成長です」

ぐったりする美澄を置いて、中盤まで盤面を戻す。

「古関さんなら、ここでもう角を切ってくると思ってました」

美澄は言われた通りに角を動かす。
数手動かすと、みるみる劣勢になった。

「以前なら自信満々で切ってました。本譜は全然自信なかったので」

「大人になりましたね」

盤面を戻して、美澄は歩を取り込む。

「僕が受けてたら、また違ってたんでしょうけど」

「先生は攻めてくるような気がしたんです」

「これだけ指していれば、お互い棋風もわかってきますよね」

「先生と何局指したかなぁ」

「……1000局はいってないと思いますけど」

言いながらも、手元ではパチパチと今の将棋をたどる。

「この飛車取り、」

久賀は美澄の飛車の前にパチリと歩を打った。

「逃げてくれればな、と思ったんです」

「時間あったら逃げる手も読みました。でも時間なかったので」

「古関さんは逃げないと思いました」

美澄に攻められて、久賀の穴熊囲いは弱体化していく。

「勝ったと思ったのに、まさかここからあんなに逆襲されるとは思いませんでした。先生、全っっ然諦めてくれないんだもん」

よくかわし切ったな、と思う。
一瞬でも気を緩めたら、そのまま首が落ちていた。

「諦めてましたよ。でもほら、あなたは間違えてくれそうだし」

「ドウセソウデスヨネー」

「詰めろ(受けなければ詰まされてしまう状態)のいくつかは、ハッタリだったんですけどね」

「え!」

「ちゃんと時間かけて読めば気づかれたと思いますけど、時間ないし、自信満々で指せば騙されてくれるかな、って」

恨みがましい視線を美澄は久賀に向ける。
もし雪玉を持っていたら、確実にぶつけていた。

「このあたりで逆転したと思ったんですけど、飛車で受けたのが好手でした」

久賀の声には、わずかに悔しさが滲んでいる、

「やぶれかぶれでしたよ。先生は▲5五角打ってくると思ってたので、それ指されたらもうだめだなって」

「このラインへの角打ち警戒してたんですよ」

「そんな手見えてませんでした」

投了図と同じ局面になり、ふたりは手を止めた。

「勝てましたけど、」

美澄はぐったりと机に突っ伏す。

「全然追いつけた気がしない……」

いろいろなことがわかるようになって、久賀の指す手が“奇跡”ではなく、長く苦しい努力と研鑽の積み重ねであることがわかるようになっていた。
それはむしろ、奇跡より深い輝きで美澄を惹きつける。

「そうですか? 僕は結構本気で指しましたけど」

顔を上げた美澄には、眼鏡をかけていない、やや不機嫌そうな久賀の横顔が見えた。

「負けるのは、もうしばらく先だと思ってたんですけどね」