久賀が背もたれに寄りかかったので、キャスターつきの椅子がギッと鳴った。

「『どうしたら強くなれるか』とは、どんな競技においても永遠の課題だと思うんです。将棋に限っても、その人の年齢、経験、どこまで極めたいかによってかなり違うでしょ。トップ棋士になってしまえば、そこを模索して成果を示すことこそが仕事とも言えます」

美澄はカウンターの上で不満げに頬杖をつく。

「絶対の方法はないってことですね」

「でも、それなりに確立されたものはありますよ。初心者に詰将棋はとても有効です」

「あと、棋譜並べと実戦。この三つは間違いないですよね」

自らも毎日それらを実践している美澄は、折った三本の指を見つめて言った。
久賀もカウンターの上で手を組んでうなずく。

「だけど、どこでどう行き詰まるかは個人差が大きいですし、それはやはり指導する者がその人に寄り添って考えてあげるべきです。その場合、必ずしも棋士が適任とは言えないと僕は思います。『どうしたら初段に上がれるか』なんて、棋士は悩んだ経験ないでしょうから」

「先生も?」

すい、と美澄は顔を上げる。
美澄はこの倶楽部に来た頃、棋力は十分ながら我流の癖が強くて、平川から初段の認定をもらえなかった。
その後も厳しく査定されて昇段に苦労したことをを知っている久賀は、ややためらったものの正直に答える。

「……初段は、そうですね。苦労しませんでした」

これみよがしなため息がカウンターの上を滑り、久賀の手まで到達した。

「だから、指導者としては、僕なんかより平川先生の方がはるかに優れているんです。僕はあなたの中にある可能性を見ようともしなかったけど、平川先生はすぐ見つけたでしょ」

暗に自分の中に可能性があると言われて、美澄はわずかに頬を染める。
久賀はそれに気づかず、マウスを動かしてパソコン画面を閉じた。

「そういう意味では、ツールが発達して、取得できる情報量に差がなくなった今でも、対面での指導の重要性は高いと思っています」

美澄は三段昇段も視野に入るほどになっていた。
昇段スピードには個人差が大きいが、何かを掴んでからの美澄の成長は著しい。

「古関さんは、そろそろ研修会に入った方がいいと思いますよ。いろんな人と対局すると、自分の課題が明確になりますから」

美澄はカウンターから離れ、久賀に背を向けた。
掃除のため机に乗せてあった椅子を下ろし、盤と駒とチェスクロックを置く。

「……もう少ししたら考えます」

年々秋が遅くなり、九月半ばになっても暑さはやわらがない。
美澄はバッグからウェットティッシュを取り出して、ベタついた手を拭いた。

「ところで先生、夢でも将棋指したりしますか?」

「しますね」

おもむろに変えられた話題に、久賀はあっさりうなずいた。

「金銀三十枚くらい持ってるのに、全然詰まない夢とか」

「悪夢ですね」

「あとは、三段リーグの夢をよく見ます」

途端に美澄は何も言えなくなってしまう。
プロになれなかった現実を久賀は何度なぞったのだろう。
もし昇段できた夢ならば、尚のこと悪夢だ。

不自然に黙ったまま盤の前に座る。
そんな美澄の思考を知ってか知らずか、久賀は向かいの席に座ってにこりと笑った。

「古関さんも、そのうち研修会の夢を見るようになると思いますよ」

始めましょうか、と久賀は駒箱を開ける。
拭いたはずの美澄の指に、駒が汗で張りついた。