「先生、キュウリ好きですか?」

唐突な質問に、久賀は目をまるくする。

「キュウリですか? ………普通に好きです」

「私、キュウリきらいなんです。もう匂いからして全然だめで」

今まさに匂いがするかのように、美澄は顔を歪めた。

「キュウリって、匂いはほとんどありませんよね」

「好きな人はそう言うんですよ。でもきらいな人間からすると、すごーく匂いが感じられるんです」

はあ、と久賀は気の抜けた声を発する。
美澄の真意を図ろうと顔を見るが、本人は心底いやそうに語気を強める。

「キュウリって、全然栄養ないらしいんですよ。あれ、ほとんど水分。サラダだって、キュウリがなくても成立するでしょ? だから、キュウリってこの世にいらないと思うんです」

政治家がマニフェストを訴える時のように、美澄は力強く言い切った。
さらに、キュウリの栄養なんて他の食品で代用できるとか、十年以上キュウリを食べていないけど健康だとか、めちゃくちゃな持論を展開し続ける。
キュウリに特別な思い入れはないはずの久賀も、さすがに不憫になったようで、

「暴論ですね。食べ物の価値は栄養素だけではないでしょう。キュウリ農家の方は日々おいしいキュウリを作る努力を続けていらっしゃると思いますよ。ちなみに僕はサラダにキュウリが入っていないと物足りないです」

と擁護した。

「でも先生、もし世界中の人がキュウリぎらいになって、全っ然売れなくなったら、キュウリ農家さんがどんなに頑張っても無理だと思いませんか? 必要ではないんだから」

久賀が言葉に詰まっている間に、美澄はさらに続ける。

「だからキュウリって、結局キュウリが好きだっていう変な人が多いから生産されてるんですよ。なくていいのに」

「……変な人」

「将棋が見向きもされなくなったら、どんなに頑張ったって先生の仕事はなくなります。ここに優秀な先生がたくさん来るようになったら、先生は必要とされなくなるかもしれません。でも、今はとりあえず、いてくれないと困るんです。この地域にも将棋が好きな人はたくさんいて、田舎に移住してまで教えてくれる人はいないので」

倶楽部の前について、久賀は足を止めた。
青信号が点滅したので、美澄も渡らずに久賀の隣に佇む。

「いいんです。先生が無能な人間でも、いなくてもいい人だとしても」

「そこまで言ってないんですけど」

表情のわかりにくい世界で、美澄の声はすがるように久賀にまとわりついた。

「先生、ここにいてくださいね」

わずかな沈黙のあと、久賀は美澄を見下ろし、電気がついたままの倶楽部を示した。

「指しますか?」

「はい!」

青に変わった信号に背を向けて、美澄は久賀に続いて倶楽部に入った。