「先生は、なんでこっちに来たんですか?」

方向が一緒なので、結局久賀と美澄は並んで駅の方へと向かった。

「平川先生に誘われて。他に働くあてもなかったので」

「スカウトですか。いいですね。芸は身を助ける」

久賀はうなずかず、

「将棋なんて、なくてもいいと思いませんか?」

と言った。
温度のない淡々とした声からは、感情が読み取れない。

「…………思いません、けど?」

今や将棋中心の生活を送る美澄には、将棋のない生活は考えられなくなっている。
けれど、今日の久賀はいつも以上に自虐的だった。

「誰かの命を救うわけでもない。生活に役立つわけでもない。遊びたければ他にいくらでもある」

「まあ、そう言われてしまえばそうですけど」

「そんな将棋しか僕には取り柄がなくて、それなのに棋士にもなれなかった。将棋を教えることだって他に上手な人がたくさんいて、東京にいても仕事がない。僕が必要とされているのは、単にこの地域の人材不足です」

難関を突破して奨励会に入っても、棋士になる人より退会する人の方が多い。
「元奨励会員」は毎年増え続けている。

「将棋なんてなくてもいいのに、僕には何もないのに、僕が生活するためにみんなに将棋を押しつけている。そう思うことがあります」

空はインク瓶を倒したように夜が染み広がっていた。
民家の玄関先に咲いているゲラニウムがピンクなのか紫なのか、判別できないほど辺りは暗い。

「先生のおっしゃること、多分、その通りなんだと思います」

考え考え話す美澄を、久賀は静かに見つめた。

「でも、押しつけでいいと思うんです。押しつけられたって、いやなものはいやなんだから」

美澄の周りに将棋を指す友人はいない。
美澄が将棋好きだと知った時「何であんなに時間かかるの? さっさと打てばいいのに」と言った友人もいた。
そういう子に、読みの分岐と精度の話をしたところで、受け入れてはもらえないだろう。