「何があったの?」
問うと、真依の顔には叢雲がかかる。
「『帰りたい』って言うと怒るから言えなくて」
「それで迎えに来て、って?」
「私の意志じゃなければ、家を出られるから」
美澄は大きくため息をついた。
暴力をふるわれていない安堵が八割、呆れた気持ちが二割。
そんな男やめなよ、と言ったところで意味がない。
そんなことは真依もよくわかっているからだ。
初めて会った彼に対する評価は口にせず、美澄はベッドに入って眼鏡をチェストの上に置く。
「これからどうするの?」
「もう行かない」
「その方がいいね」
電気を消すと、寒さがより強く感じられた。
窓ガラスがガタガタと鳴っている。
さっきまであんなに晴れていたのに、今は吹雪になったらしい。
カーテン越しにも冷気がどんどん入ってくる。
「ねえ、真依」
「んー?」
「あの人のどこが好きなの?」
とてもきれいな、絵になるような男性だった。
しかし、きれいだとか格好いいと思うことと、好きになることとは必ずしも同じではない。
美澄は人生を何度やり直しても、あの人を好きにはなれない。
「SEXが上手い」
息を飲んで飛び上がると、真依はきゃははと笑う。
「そんな動揺しないでよ。冗談だよ」
これから寝ようというときに、余計な心拍数を上げられて、美澄は心臓のあたりを撫で回した。
「なんだろう? 将棋馬鹿の美澄には言ってもわからないかもしれないけど」
「失礼だな」
ごめーん、と真依は笑って、それからガラリと声の色彩を変えた。
「愚かだよね」
狭いワンルームのベッドの上と下。
その距離以上に美澄と真依は遠かった。
真依の中にも、あの人と似た深淵があるのかもしれない。
人は、心の中にある湖の水が近い人に惹かれるのかもしれない。
「美澄は好きな人いないの?」
「いない」
「将棋仲間は?」
「還暦過ぎてるか小学生」
ケラケラと真依は笑う。
実際のところ倶楽部には若い男性も女性も出入りしているが、美澄は今、恋愛どころではない。
「そう言えば、元彼も将棋絡みで逃げられたんだっけ?」
「その話はもういいの!」
ろくに恋愛をしてこなかった美澄には、真依の話より久賀の語る手筋の方がよっぽど馴染みがいい。
「なんか将棋指したくなってきちゃった。明日の朝早く家出る」
「わかった。おやすみ」
静かになると、深淵からひんやりとした指が伸びてくる気がして、美澄は布団の中で身震いした。
同じ恐怖なら、うつくしい手で一枚一枚守り駒を剥がされていく恐怖の方がずっといい。
冷静な目と青いシャツ。
早くあの場所に帰りたい。



