元気よく手を振り返した美澄は、四十分後、見事に沈没していた。

「気持ちいいほどの完敗だったね」

磯島が美澄の肩を叩いて帰っていく。
いつの間にか背後で見ていた圭吾は、

「負けても大丈夫! 次頑張ろう!」

と励ましてくれた。

「ありがとう。今度またコーラご馳走するね」

美澄は片手を上げて応じ、無惨な投了図に視線を戻す。

なぜそこに歩を打てたのか。
なぜそこで飛車を回ったのか。
久賀の指す一手一手は美澄の思考の常に先を行く。
歴史的偉人の棋譜も、タイトル戦で指される将棋も知っているけれど、美澄にとっては目の前でくり広げられる久賀の将棋こそが、まばゆい奇跡の連なりだった。
久賀自身はそれをどれほどわかっているのだろうか。

しゅん、としおれる美澄の目の前で、久賀は勝負所まで盤面を戻していく。

「中盤、手が見えてませんでしたね」

「どうしたらいいかわからなくて」

「まず、左銀を前に出すイメージを持って欲しかったです」

久賀は美澄の銀をパチリとひとつ進める。

「ちょっと考えたんですけど、怖くて」

「それ以外でも、この局面は打ち放題だったんです。角を打ち込める場所が、一、二、三ヶ所」

とんとんとん、と動く指を、美澄はひとつひとつ目で追う。

「歩を打てる場所がここ。あと桂馬……はどこだと思いますか?」

美澄はかじりつくように盤面を睨んだあと、魂ごと吐き出した。

「…………3五」

「正解」

「ああああ! もう! 全然ひとつも見えてないです。なんでだろう? もうやだ」

「攻めのパターンをどれだけ知ってるかという知識量と経験値ですね。どちらも量の問題なので、いくらでも補強できます」

久賀はその長い指で、盤の横にある紙を拾い上げる。

「棋譜書いたんですね、自分で」

「はい。私は頭に入れられないので」

「大事なことです」

ほんの少し久賀の口角が上がったのを、美澄は目ざとく見つけた。

「……褒められた」

「褒めてません」

棋譜を机に戻すと、その指が盤に伸びる。

「そもそも駒組段階で、まだ急戦の含みが残ってるんだから、銀上がるの早過ぎます」

「飛車振り直したらまだ難しいと思って」

「そうですけど、それをあなたの棋力で指しこなすのは難しいでしょう。もっと実践的な順を選んだ方がいいと思いますよ。具体的には━━」

「待って! 待ってください、メモしたいので」

久賀は赤ペンで美澄の棋譜に符号を書き足していった。
美澄はそれを頭痛を堪えるような表情で見つめる。

「何かわからないところがありますか?」

「いえ、符号を盤に変換するのに時間がかかるだけです」

久賀は、そうですか、とまったく共感できない様子でうなずいた。
そして、

「わからなくなったらいつでも聞きにきてください」

と、おざなりに話を締めくくった。