「そういえば、圭吾くんって、平川先生じゃなくて、いつも久賀先生の指導受けてるよね」

「うん。前は家の近くの道場に通ってたんだけど、久賀先生のこと知って、土日はこっちに来たの」

「なんで?」

電車で片道五十分をかけて、わざわざ久賀に会いに来ているのだと言われたら、素直な疑問が口をついた。

「だって、久賀先生は元奨励会三段だもん」

「え! 三段!?」

奨励会三段ということは、久賀は三段リーグという地獄を味わっていたということだ。

三段リーグはプロ棋士への最終関門。
三段同士が半年で18局戦い、上位二名だけがプロである四段に昇段できる。
二十六歳までにこの二名に入れなければ退会。
地獄のリーグと呼ばれる所以だ。

その棋力はプロとほとんど差がなく、退会しても純粋な「素人」とは言えない。

「そうだよ。知らなかったの?」

聞いたこともあったかもしれないが、久賀の経歴になど興味のない美澄の頭には、彼に関する一切の情報が入っていない。

「三月で退会して、今の倶楽部には六月からいるみたい」

「それならほとんど現役じゃない。どうりで強いはずだよね」

半年のブランクがあるとしても、久賀はプロに準ずる棋力を持っているということだ。
アマチュア四段を奨励会6級と仮定して、その差を指折り数えてみると、美澄とは11段級差。
飛車落ちどころか二枚(飛車と角行)落としてもらっても勝てるかどうかわからない。

「奨励会にいた人が近くにいてよかった」

将棋会館のある東京や大阪、その近郊であればプロや奨励会員の指導を日常的に受けられる。
しかし、地方ではまれにあるイベントに参加するか、自分で都会まで赴かないと難しい。
都会と地方で、その経験値の差はかなり開く。

「久賀先生が来てから、県外からもこの倶楽部に通ってくる子が増えたよ。そういう子と指すのも楽しい」

圭吾は最近、内藤陽斗という県境に住む中学一年生の男の子と親しくしている。
県をまたいでやってくる彼は、去年小学生名人戦の県代表にもなった棋力の持ち主だ。
美澄を含む大人とも屈託なく接する圭吾だが、内藤には友達ともライバルとも憧れとも取れる、親しげな一面を見せている。

将棋はオンラインでも十分可能だが、強い人と直接盤を挟んで切磋琢磨することは、代えがたい大きな経験なのだ。
久賀の性格や指導力はともかく、その存在によって倶楽部全体のレベルが上がっていた。

「じゃあ、先生を倒せたら、私も奨励会入れるのかな?」

「多分無理」

そんなところまで久賀仕込みなのかというほど、圭吾はきっぱりと断言した。

「なんでよ!」

「年齢制限あるもん」(通常の入会試験は十九歳まで)

「え! そうなの!?」

「古関さんって、何も知らないよね」

ずぉーーーっと音を立てて、圭吾がコーラを飲み干した。
すぐ隣からは、控えめな視線と忍び笑いが、美澄のところに届いていた。