美澄の視線が一心に久賀に向けられていることはわかっていたが、どことなく気まずさが勝って、そちらは見られなかった。
目を合わせないまま、久賀は頭を下げた。

「先日は僕も、少しだけ感情的になりました。すみません」

謝罪は予想外だったらしく、美澄は驚いていた。

「先生も結構大人げないんですね」

「古関さんは一度、思い切り負けた方がいいと思ったんです」

「なんですか、それ」

美澄はツン、と唇を尖らせた。

「古関さんは自分のやりたい手しか考えません。それが成功すると、同じ手を指し続ける。どんな人だって、同じことをくり返されれば慣れます。それなのに古関さん自身は同じ手に引っ掛かっては同じ間違いをくり返す」

まだ生々しい傷をボールペンで抉る行為だとわかっていても、他に話題もなく、結局思うことを全部言ってしまった。

「将棋は、進化し続ける者しか勝てない競技です」

浴びせられた言葉で、美澄はしおしおと小さくなった。

「先生は将棋も言葉も厳し過ぎます」

「そうですか」

「本当はまだ、先生の顔も見たくないんです」

「はい」

「でも、知りたくて」

美澄の声に熱を感じて、久賀は吸い寄せられるようにそちらを見た。
悔しそうな瞳が、今渡したばかりの棋譜に向けられている。

「なんであんなことになったのか、どうしたらよかったのか、知りたいんです」

身を焼かれるような敗戦だったはずだ。
一手一手、その細い指をへし折るような気持ちで指したのだから。
しかし美澄は、しおれてはいても生命力を失ってはいない。

「あんな負け方したばかりの私がこんなこと言うのは変かもしれませんけど、将棋って、思ってたよりずっと面白いですね」

それは久賀も何度もたどった道だった。
思い出すのも恥ずかしい敗戦の後、二度と指さないと決意した翌日、結局はそこに行き着く。

「それがいちばん大事じゃないですか」

ようやくあたたまったエアコンが、大きな音を立てながら温風を吐き出し始めた。
美澄のキャラメル色の髪がサラサラとなびく。

「女流棋士を目指すとか、段位を上げる以前に、負けても悔しくても将棋が面白いっていう気持ち。それがあれば前に進める」

久賀は知らずに笑みを浮かべ、それに驚いて美澄は棋譜を落としそうになった。
丁寧に折りたたんで手帳の間に挟む。

「でも、そんな指導だと子ども相手は無理じゃないですか?」

どんな反論より胸に刺さり、久賀はあからさまに肩を落とした。
くしゃくしゃと頭を掻く。

「面倒くさいなって思います、正直。予想がつかない。子どもって歩のくせに、クイーンやナイトの動き方をするので」

「クイーン?」

「チェスの駒です。飛車と角を合わせた動きができます」

「最強ですね」

「ええ」

美澄は笑って久賀の頭を指差した。

「先生、髪立ってます」

ふわふわとまとまりのない髪の毛をなでつけると、一ヶ所ピンと跳ねていた。
手櫛で強引に跳ねを押さえつけながら美澄を見ると、

「直ってませんよ」

と、まだくすくす笑っていた。