「あ、そうだ。明日の職業講話、おめかしするのと取り繕った格好するのと、どっちで行けばいいんでしょうか?」
「将棋界のためにも、絶対に取り繕った格好でお願いします」
ふふふ、と美澄は縁石の上を歩く。
これで目線は久賀とほぼ同じになる。
「将棋界のため、かぁ。私、そんなに大それたことできませんよ」
「いえ、それはわかりませんよ」
冷えたこの空気よりきっぱりと久賀は言った。
「明日の職業講話を聞いて将棋を始める人がいるかもしれない。さらにその人を見て女流棋士になる人がいるかもしれない。さらにさらにその人を見て棋士になる人がいるかもしれない」
めずらしく夢物語を語る久賀の声は少年めいている。
けれど、そこにはひと摘まみだが真に可能性を信じる想いが混ぜ込まれていた。
「それでいつか━━それは僕やあなたが生きている時代ではないかもしれないけど━━それでもいつか、この場所にタイトルを持ち帰る棋士が誕生するかもしれない。女性の棋士が誕生するかもしれない」
何もない空の、さらにその先を見つめていた視線が、すぐ目の前の美澄に向けられた。
「あなたが今、懸命に考えて指した一手は、きっとその礎になる、と僕は思いますよ」
将棋史に残らなくても、平川から久賀へ、久賀から美澄へ、連綿と受け継がれてきた系譜が確かにある。
そして美澄から、誰かへ。
久賀に支えられ、美澄は縁石を飛び降りた。
そして、千年後の彗星を待つに似た途方もない話に、白いため息をつく。
「遠いなぁ」
美澄が笑うと、久賀も微笑みを返した。
「遠いですね」
意味なんてない世界で、意味なんてない努力をひとつひとつ積み上げていく。
“いつか”へ繋げる、一手。
end.



