そもそも、女流棋士として一番望まれているのは指導者として熟練することではなく、勝つことなのだ。
誰だって強い人に指導してもらいたいし、縁のある棋士には勝ってもらいたい。
勝つこと。
結局すべてがそこに集約されていく。

美澄は時計を見てカウンターを降りた。

「そろそろ帰らないと。明日の午後一番に、圭吾くんの中学校で職業講話なんです」

お疲れ様でした、とバッグを掴んだ美澄を久賀が呼び止めた。

「美澄」

美澄は呪詛でもかけられたように動きを止める。
久賀はカウンターを回り込んで、美澄との距離を詰めた。

「明日、どうやって行くつもりですか?」

「普通に、電車で?」

「一日がかりになりますよ。十四時半頃中学校を出られたとして、駅までタクシー移動しても14:48発の電車になります。そうなると、こちらに着くのは15:39。明日、僕はお休みなんですけど」

拗ねるような久賀の言い方に、美澄は気まずそうに目をそらす。

「仕事をセーブしろとは言いません。でももう少し配慮があって然るべきではありませんか?」

「先生も……」

「僕だってそう思うことはあります」

久賀はカウンターの中に戻り、パソコンで地図を検索した。

「明日は僕が車で送る」

「そんなの悪いですよ。先生は関係ないのに」

久賀は美澄の発言は無視して、パソコン画面を見ながら何度かうなずいた。

「中学校から車で十五分ほどのところに、有名なお蕎麦屋さんがありますね。お昼はそこで食べましょう」

「でも先生は、私が仕事している間はどこで待ってるんですか?」

「車で三十分ほど行ったところに、3種踏切があるので、見に行ってきます」

「3種?」

美澄はふたたびカウンターに座って、パソコン画面を覗き込む。

「警報機のみで、遮断機がない踏切です。全国で約760箇所しかない珍しい踏切なんです」

浮き立った声に、今度は美澄が目をすがめる。

「先生、そっちが目的でしょ」

久賀は笑って否定はせず、カウンターを回り込んで美澄の隣に座った。

「でもありがとうございます。デートって久しぶりですね」

「あなたがいつもいないからね」

そう言いながら、久賀は眼鏡をはずし、そっと美澄を引き寄せた。
一瞬身体を強張らせた美澄も、素直に身を委ねる。

「生きる意味なんてない」と語った唇は、やわらかく、あたたかく、生命の味がする。

将棋と違い、相当手加減をしてくれている久賀は、ほんの三秒程度で美澄を解放した。
そして視線の数cm先でミルクのように笑う。
甘やかな笑顔をもっと見ていたい気持ちはあったけれど、恥ずかしさの方が勝って、美澄は真っ赤な顔を伏せた。

「……昨日勉強した矢倉の定跡、今ので忘れちゃいました」

「だったらもう一度勉強してください」

湯気が上がりそうな頭の上に、久賀の明るい笑い声が降りた。