感動にうち震える美澄の隣に、美澄よりやや大きな影が座った。

「ねえ、圭吾くん。先生、すっごくやさしくない?」

あどけなさは残っているものの、身体つきは少年の域を出つつあり、美澄は見上げる形で声をかけた。
圭吾は久賀を見たが、そうだね、と当たり前のように聞き流す。
その声もすっかり低い。

「久賀先生の指導はやさしいよ」

「えー! 私が『わかんない』とか言うと、『わかるまで考えてください』か『それならやらなくて結構です』の二択だったのに」

「それ言ってたら、さすがに生徒いなくなるじゃん」

「そうだけどさ」

「それに古関さんは“お客さん”じゃなかったでしょ」

今尚、何の理由もなくここに居座っている美澄はマグカップで口を塞いだ。

「圭吾、時間」

相変わらず時刻表が搭載されている久賀から指摘され、圭吾は時計を見る。

「あ、本当だ」

立ち上がった圭吾に、美澄はひらひらと手を振る。

「ちゃんと勉強するんだよ、受験生」

「わかってる。じゃあ古関さん、また明日」

美澄は明日、圭吾のいる中学校で職業講話を担当することになっていた。
看護師、農協の職員と並んで女流棋士の話ができることはとても名誉に思う。

「先生、今日指導した方のお子さんが、東高校の将棋部らしいんですけど、」

平川も帰り、からんとした教室で美澄はバッグからメモを取り出す。

「強いところですね」

「定期的なオンライン指導を受けられないか相談を受けたんです。それで先生を紹介しておきました。今度連絡があると思うので、よろしくお願いします」

名前と段位が書かれたそのメモを久賀は一瞥して、ファイルに挟んだ。

「ありがたいお話ですけど、あなたへの依頼だったのでは?」

美澄はカウンターに座って、駄々をこねるように脚をぶらぶらさせる。
フレアスカートの裾が揺れた。

「だって、その子居飛車党なんですよ。最新の相掛かりについて聞かれても答えられません」

「それは僕でも無理です。タイトル戦で指されているような将棋は、謂わば研究発表ですからね。それを指導のレベルでは扱わないですよ」

「小学生にそういう質問されたときはどうしたらいいんでしょうか」

『だって市川王将は居玉(いぎょく)(玉を初形から動かさないこと。避けるべきとされる)だったよ』などと、トッププロの指し手を真似る子もいる。
しかし、最善手はそれぞれのレベルによって違うのだ。
トッププロの将棋ではタブーとされる手を採用することがあるけれど、初心者が理解しないまま真似るとたいてい大惨事になる。

「『やめた方がいい』とは言いますけど、それで納得してはくれないですよね。根気よく付き合います」

「私、先生ほど面倒見よくないです」

「あとは痛い目を見てもらうしかない」

「…………刺さる」