「俺もこうして指導することも少なくなるからね」

「師匠にはまだまだ教えていただきたいことがたくさんあります」

「何言ってるの。古関さんはもうプロなんだからさ、自立しなきゃ」

ピシリと言い渡され、美澄は何も言えなくなる。
プロであるからには、自分で模索し、その成果を示さなければならない。
師匠であっても本来は戦う相手なのだ。

「これでも結構悩んだんだよ。夏紀くんの掌中の珠を預かることになって」

あちこちに久賀の指導の跡が感じられる美澄に、どのくらい関わって、どう導いて行くべきか。
下手に口出しして惑わせてしまわないか、放置して不安にさせないか。
馨は馨で、初めての弟子なのだ。

「結局は夏紀くんがしていたみたいに、ひたすら練習に付き合ったんだけど、そのせいで伸ばし切れなかった個性もあるだろうし、よかったかどうかわからないよね」

「いえ、本当にありがとうございました」

「なんか娘を嫁に出すみたいだなぁ」

しんみりと言う馨に向かって、美澄は姿勢を正し頭を下げた。

「本当にお世話になりました。これから少しでもご恩を返せるように頑張ります」

「恩返しなんていらないよ」

馨はきっぱりと言った。

「親や師から受けた愛情や恩は、直接返す必要ないんだよ。それは次に他の誰かに返して。当たり前のように愛情を受け取って、当たり前のように次の世代に渡していく。そうやって、愛情が回っていく世の中であって欲しいよ、俺は」

どれほど望んだとて普通ならば得られないものを、馨はいつも容易く美澄に渡す。
美澄は鼻をすん、と鳴らした。

「でも、私の中にある師匠への感謝は、どうやってぶつけたらいいんですか?」

にこやかだった馨の目がすうっと細められた。

「もし本気で恩返しがしたいって言うなら、公式戦でやろうよ」

馨と公式戦で戦うということは、男性棋士と同じ棋戦に出るということだ。
棋戦によっては女流棋士枠があるが、それはごく限られている。
すなわち女流棋戦で優勝することと同等の成果を出さねば、同じラインにも立てない。

「将棋界で『恩返し』って、どういう意味か聞いたことあるよね?」

将棋界の『恩返し』。
それは公式戦で師匠と対局して勝つこと。
または、師匠をやり込めた相手に勝つこと。
もしくは、師匠の地位を越えること。
どれも美澄には途方もない。
「公式戦で対局する」はかなりハードルを下げての提案だった。

しかし、倉敷藤花戦も三回戦で敗退し、その難しさを日々感じている美澄は声のトーンを落とした。

「……頑張ります」

約束を避ける不甲斐ない返事に、馨は耳掻き一杯分の苦笑を混ぜたやさしい笑顔をくれた。