馨のスプーンから溶けたバニラがこぼれ落ちて、美澄はキッチンで濡らしてきた布巾を手渡す。

「師匠」

「ああ、別にいいのに。このくらい」

「だめです。そのシャツ、とってもかわいいので」

青いストライプシャツにベージュのパンツは久賀と同じようなスタイルなのに、シルエットもストライプの色合いも違うと洗練されて見える。

「いいでしょ」

と、馨はバニラをトントンと拭き取った。

「よかったらあげようか?……って言いたいけど、俺のシャツ着てたら夏紀くん怒るよね」

「ください!……って言いたいですけど、多分先生は怒ります」

「夏紀ってちゃんと焼きもち焼くんだ」

「『心配はしてないけど、気分は悪い』んだそうです。でも、師匠からもらったって言わなきゃ大丈夫かな」

「バレた時、俺が何言われるかわかんないよ」

しゅんとした美澄に綾音は話題を変える。

「美澄ちゃん、まだ夏紀のこと『先生』って呼んでるの?」

名残惜し気に馨のシャツを見ながら、美澄は即座にうなずいた。

「はい」

「付き合って半年以上になるのに?」

「でもほとんど会ってませんから」

「えー! 『先生』はないよ。『先生』なんて、うちにも三人いるんだよ」

テーブルの上のゴミをゴミ箱に捨てながら、馨が割って入った。

「いや、古関さんが『先生』って呼ぶの、夏紀くんだけだよ」

言い切る馨の顔を見て、美澄は首をかしげる。
そんな美澄の眼前で指を折りつつ、馨は数多くいる「先生」の呼び名を並べ上げた。
師匠、真美先生、辰夫先生、平川先生、秋吉さん、森川さん、奥沼先生。
ああ! と綾音が納得の声を上げる。

「途中で気づいたんだけど、古関さんが『先生』って言ったら夏紀くんのことなの。最初からずっと」

それはまるで、最初からずっと久賀だけが特別だったと言われたようで、美澄は顔を上げていられなくなった。

「でも『先生』って名前じゃないし、そのうち困るんじゃない? せめて『夏紀先生』って呼んだら? ちょっと言ってみてよ」

綾音が言うように世の中には「先生」がたくさんいる。
これから久賀と行動を共にするなら、明確に呼び分ける必要が出てくるかもしれない。
けれど、舌先に乗せる前から耳の縁が熱くなり、美澄は口を「な」の形に開いた瞬間ふたたび閉じた。

「あ、やっぱり無理です」

「投了早いな」

「夏紀も苦労してそうだね」

楽しげに笑う綾音を、美澄はじいっと見る。

「呼び方って言えば、綾音さん」

アイスクリームを口に入れた綾音は、ん? と鼻で返事をする。

「私、綾音さんが先生を呼び捨てにするのも、先生が綾音さんを名前で呼ぶのも、実はずっといやなんです」

綾音は口を押さえて、あはははは! と笑った。

「それ最高!」

同居を始めた当初、綾音にはかなり気後れして、挨拶さえ小声でしかできなかった。
そんな風にウジウジしていると、余計にきらわれるのではないかと怯えてもいた。
綾音の正直さは時に傷つくこともあったけれど裏を読まなくていい安心感もあって、いつの間にか実の家族より気安い存在になっている。

今後も対局の前日には日藤家に泊まるので、綾音とは買い物も旅行もたくさんの約束をしている。