「ここ」

馨は美澄の玉頭にパチリと歩を打つ。

エアコンの効いたリビングにも厳しい残暑は押し入って、ノースリーブから伸びた美澄の腕も汗でベタついていた。

「▲同銀で取ってたけど、逃げる手は考えなかった?」

「考えましたけど、飛車が怖かったので」

「でも4八まで逃げられればまだわかんなかったよ」

美澄の目に輝きが差したのを見て、馨は5六に桂馬を打った。

「逃がさないけどね」

4八の地点には、美澄のため息とエアコンの冷風だけが落ちる。

「この桂を打たれる前に4八に逃げるルートを確保できれば五分かな」

一向に美澄の顔は上がらないので、馨は下から覗き込む。

「勝てると思った?」

久賀相手なら噛みつくところだが、相手は師匠なので、美澄はしずかに答えた。

「……期待はしました」

「それは形勢判断甘すぎる」

馨が盤面を元に戻すので、美澄も合わせて駒を動かす。

「あ、でもこれ面白かったよね。角桂交換。桂馬の価値の方が高いと思ったんでしょ?」

美澄はまたため息で返事をする。

「古関さんらしい手だよね。悪い手ではあるんだけど、明るいっていうか。いい勝負手だったよ」

馨が駒を片付け始め、美澄は、ありがとうございました、と頭を下げる。
見計らっていたように、綾音がリビングのドアを開けた。

「終わった?」

美澄は疲れた顔にほんのりと笑顔を浮かべる。

「はい。終わりました」

「アイスクリーム買ってきたから食べようよ」

「いただきます!」

美澄はうきうきとキッチンに走り、三人分の冷茶を淹れて戻った。
美澄の気持ちを代弁するように、グラスの中で氷がカロロンと歌う。

美澄ちゃんどうぞ、と綾音に勧められたので、美澄は礼を言ってから箱ごと馨の前に差し出した。

「師匠、お先にどうぞ」

譲られて、馨はためらいなくチョコチップバニラを取る。
師弟関係を知っているから綾音は何も言わないし、また馨も辰夫の好きな抹茶あずきと、真美の好きなオレンジシャーベットと美澄の好きなストロベリー・フロマージュは選ばなかった。

「じゃあ、私もいただきます」

美澄がストロベリー・フロマージュを取ったのを見て、馨はほんの少し満足そうに表情を緩める。

プラスチックのスプーンでひと口食べると、さわやかな甘味が脳の傷口にやさしく染みた。

「あー、おいしい」

少し苦めの冷茶も、今はちょうどいい。
綾音もモカ・ナッツの頂上にスプーンを突き立てている。

「頭使ったから糖分欲しいでしょ?」

「自分の情けなさにも沁みます……」

久賀の将棋も見えている景色が違うと感じたが、馨は体幹の違いを感じる。
それは身を置く戦場が厳しいものであることがうかがえた。

「精進しなさーい」

からりと明るい馨の声に、美澄は重々しくうなずいた。

「はい」