攻守の選択が難しい場面では、その人の棋風が出る。
水原はどちらかと言うと受けを得意としていて、無理に攻めて行くことは少ない。
久賀の読んだ順に気づいたとしても、その後の展開を考えると選ぶ可能性は低いように思えた。

その読み通り、対局が再開されると水原は馬を引いて攻守に利かせた。
渋くて手厚い手ではあるけれど若干消極的で、形勢としてはやや美澄に分がある。
久賀は深く深く安堵のため息をついた。

そんな久賀の気も知らず、美澄は積極的に攻めていった。
水原は丁寧に対処しつつも美澄の玉にプレッシャーをかけていく。

「ぴったり付いていくな」

弱り切った声で磯島が言うので、久賀も同意した。

「さすがですよね」

強い人は、例え形勢が悪くなっても一気に崩れない。
差をつけられないように巧みに指して、盤面を複雑化して惑わせる。
読みにない手を連続して指され、美澄は時間を使わされていた。

倉敷藤花戦の持ち時間は各二時間。
美澄は残った時間を有効に使って、読みを入れている。

ギリギリまで読んだ美澄は冷静だった。
攻め一辺倒にならず、時には受け、時には力を溜めて、じっくり水原を追い詰める。
ほうっと、久賀から感嘆の息がもれた。

「女流棋士になったんだな」

ここで久賀に叱責されていた頃の美澄とは違う。

『私が、先生が誇れるような立派な女流棋士になりますから』

あの言葉を、ただの慰めだと聞き流してはいけなかった。

神に祈らずとも、美澄には水原の放つ怪しい勝負手、綾をつけようという手がしっかりと見えていて、着実にかわしていく。
すべての指し手が公開され、記録され、その責を一人で負う。
その覚悟ができている。
美澄はもう、久賀の知らない世界で戦っていた。

けれども、心配する気持ちもまた、理屈とは別物だ。

「ハラハラするー。これ勝てるの?」

「古関さんは危なっかしいからなぁ」

ギャラリーは増えていた。

最終盤、水原が連続して勝負手を放っていく。
長い。
お互いに持ち時間を使い切り、一分将棋(一分以内に指さなければ時間切れ負け)になってからも時間が経過していた。
美澄の優勢は変わらないが、水原の誘導も巧みで、一手間違えたら一気に逆転される局面が続く。

久賀はひとり離れて、ソファーで膝を抱えていた。

「平川先生、これ詰めろかな?」

「うーん、どうでしょうね。詰めろのような気はしますが」

「久賀先生ー」

「僕には何も聞かないでください!」

ギャラリーの反応だけで、久賀の胃は上下する。

たった一手で取り返しのつかない将棋になってしまうことも、優勢を粘られて逆転されることも、美澄はよく知っている。
久賀は、目の前で悔しがる美澄を何百回も見てきた。
だから最後まで油断するはずはない。

祈る形に結ばれた手は、指先が白くなるほど力がこもっていた。