美澄が血の気の引いた顔で、泣くこともできずに久賀の前から走り去ったのは、三年半前のこと。
あの時折ったはずの心はすくすくと育ち、伸びやかな葉を陽光に向けている。

久賀は重い身体を起こして、タブレットの画面を見た。

先手の水原は左美濃囲い、美澄も美濃囲いに構え、対抗形となっている。
美澄は戦法の好き嫌いが激しく、対抗形の勉強は好まない。
居飛車党である馨に鍛えられてはきたが、苦手意識はあるはずだ。

飛車をぶつけてきた水原に、美澄は落ち着いて桂馬を跳ねる。
これは振り飛車としてごく自然な手であるが、水原は鋭くその桂馬を仕留めにかかる。

「久賀先生、この桂馬取られちゃったら危ないんでない?」

「桂馬跳ねないといずれ三筋を突破されるので、その対応です。あの銀を引かせることができれば桂成りが入るので、大丈夫だと思ってるんでしょう」

「そうか、大丈夫ならいいけど」

「…………」

お茶をすする音しか聞こえない倶楽部に、バイブ音が鳴った。
いつもなら仕事中は見ないのだが、今は仕事前なのでリュックの中からスマートフォンを取り出す。

『あの銀の攻めさぁ、夏紀くんの指導?』

挨拶もなく、馨はそう切り出した。

「いや。でも自然な手だったと思うけど」

『一見鋭くていい攻めに見えるけど、桂打ちの切り返しが危ないよね。やっぱり桂跳ねるの早かったんじゃないかな』

「でも跳ねないと三筋突破される」

『突破されて竜作られても、それ以上先手に手はないじゃん。夏紀くんもわかってるでしょ?』

「……うん」

『時間の使い方見てると、古関さんそっちの順は検討してないよね。あとで説教』

にこやかな声に一抹の緊張感を織り混ぜて馨は言った。

『どんな気分?』

「何が?」

『公開ラブレター』

平川をチラリと見て、久賀は胃のあたりをさする。

「それどころじゃない」

電話の向こうで、馨が盛大に笑った。

得意戦法だからこそ長所も短所もよく見える。
久賀には、美澄が地雷原を目隠しして歩いているように見えていた。
自分のときは祈ったことなどないのに、心の中で何度目かの神頼みを唱える。

『なんで他人の将棋に一喜一憂しなきゃいけないんだろ。弟子なんて取るもんじゃないね』

「奥沼先生は偉大だな」

確かに、と馨は笑い声を立てたが、それは泣き笑いのようなため息に変わった。

『本当に、胃痛いよねぇ』

久賀が同意すると、ふつりと電話は切れた。