「『頑張って』って言うの、また怖くなりましたか?」

返事がない中に、久賀の迷いが感じられた。
誰にも将棋で不幸になってほしくない、将棋をきらいになってほしくない。
でもそれは、誰からも愛されたいと願うくらい難しいことだ。

「言っていいんですよ、『頑張れ』って」

いつかのように美澄はくり返す。

心からの言葉であっても届かないこともある。
何気ない言葉に傷つくこともある。
この世は思うようにならない。
長年使い込んだグラスのように、いつついたのかわからない傷で白っぽくなりながら、みんな生きている。

けれど、思いもよらない幸福もまた、日常にあふれている。
この手が、今美澄の手の中にあるように。

「内藤くんのことは、先生のせいじゃありません」

夏雲のように明るい声ではっきりと言った。

「先生は棋士になれなかったとき、師匠を恨みましたか? ご両親を恨みましたか?」

「いえ」

「なんで立場が逆になると、全部背負おうとするんですか」

こんなことは久賀もよくわかっている。
わかっていることもわかっていて、美澄はひたすら言葉を重ねた。

「内藤くんだって、今はつらくて将棋と距離を取ったかもしれないけど、いつかまた戻ってくるかもしれないじゃないですか」

コンクリートブロックから飛び出た桜の枝を、久賀はくぐるようにして避けた。
その枝は、もうすぐやってくる季節に向けて、赤く生命力を蓄えている。

「わからないんですよ、先生。未来は、全然わからないんです。全部これからです」

間違いないと思われていた定跡が覆される。
一度は廃れた戦法が見直される。
そんなことがこの世界では毎日のように起こる。

けれど、どれだけ伝えても、本人が理解していても、結局すべて背負ってしまうひとだろう。
美澄のくり返す薄っぺらな励ましを、トイレットペーパーのように使い捨てて進んでくれればいい。

「私が、先生が誇れるような立派な女流棋士になりますから」

久賀はここで初めて顔を曇らせた。

「あなたが背負うことではありません」

「先生がそれ言うの?」

改札で一度離された手は、その後すぐに結び直された。

入線してくる電車の風で、前髪が巻き上がる。
ぬくもりを確かめるように、久賀が手を握り直した。

「頑張ってください」

届けるつもりのない小さなつぶやきが、ブレーキ音に紛れる。
かろうじて耳の端で捉えた美澄は久賀を見上げた。

「はい。頑張ります!」

通りすぎていく車両を目で追うふりをして、久賀は視線をそらした。