長い踏切にイライラする人が少しずつ増えていく。
その中にあって、美澄はこれまでにない幸福な気持ちで踏切を見つめた。
右手があたたかい。

電車の中には、会社帰り、学校帰り、さまざまな人がスマートフォンを見たり、うたた寝をしたり、それぞれの時間を過ごしている。
やがて、彼らの小さな世界がまるごと動き出す。
その背が小さくなる頃に遮断機は上がった。

「ありがとう」

握った手に力を込めて、久賀は美澄に言った。

足場の悪い踏切を越え、道幅の狭い商店街も手をつないだまま歩く。
肉屋兼惣菜屋のにぎわい。
クリーニング店のスチームの匂い。
くるくる回る床屋のサインポール。

「先生」

「ん?」

「何かあったんですよね。用事じゃなくて、もしかして私に会いにきてくれました?」

つないでいない方の手で、久賀は眼鏡を直す。

「あなたに会いたかったのは事実ですが、用事もありました」

そのまま地面に落ちるような、重くかすれた声で続ける。

「岩代先生にご挨拶に行ってきました」

「岩代先生って……」

「内藤くんの師匠です」

内藤陽斗は、県境の町に住む高校一年生の男の子で、隣県では小学生の頃から代表になるような強豪だった。
あさひ将棋倶楽部へは県をまたぐ形になるが、久賀の噂を聞いて熱心に通い、圭吾とも親しくしていた。
やがて、奨励会を受験したいという話になり、久賀が自身の兄弟子であった岩代七段を紹介したのは二年半前のこと。
無事合格したところまでは美澄も聞いていた。

「内藤くん、奨励会を退会したそうです」

美澄は久賀を見上げた。
その表情は一見して変わっているわけではない。

「入会してすぐ九連敗したそうです。やっと一勝してからの勝率は五分だったそうですが」

奨励会の昇級規定は級によってそれぞれ異なるけれど、どれも勝率としては七割を越える必要がある。

「頑張ったんですよ。家から駅まで車で一時間。そこから夜行バスで八時間。早朝に着いて時間をつぶして、将棋会館まで二十分。それを月に二回です。うちの倶楽部にもバスと電車を乗り継いで、毎週」

東の空には上弦の月が上っていた。
多くの悲しみを受け止めてきた千年の月は、今夜悲しみに暮れる久賀の上に差し掛かる。

「もう将棋は指さないそうです」

夕闇に紛れた久賀の表情は、やはり変化がない。
通い慣れた道をたどるように、悔しさややるせなさを押し殺す。

久賀の手を引いて、美澄は幾分歩みを早める。