靴を履く美澄を久賀は見下ろして、何度目かになるセリフを吐く。

「本当に送ってくれなくていいですって。もう暗くなる」

駅まで徒歩十五分。
そこから新幹線の駅まで約四十分。
美澄は見送ると言ってきかない。
すでに世界は紅茶を注がれたように、きりりと赤く染まっていた。

「いいから行きましょう。先生、忘れ物ないですか?」

「忘れるほど持ってきてないから」

久賀はほとんど物の入っていないリュックを背負っていて、美澄も小さな斜めがけバッグひとつという軽装で日藤家を出た。

「居飛車の勉強するんですか?」

久賀の問いに、美澄は小さくかぶりを振る。

「今はしません」

「オールラウンダーにならなくても、知識として知っておくべきだとは思いますよ」

「はい。だから……帰ったら、先生に教えてもらう」

久賀はすい、と眼鏡を上げた。
たくさんの鳥が電線に止まっている。

「私、ずるいですか?」

「いいえ。利用できるものを利用しているだけでしょう」

「やな言い方」

「僕は厳しいですよ」

久賀に向けて、美澄は満面の笑みを放つ。

「知ってます!」

スキップしかけた美澄は、はっとして腕時計を見る。

「先生! 走りましょう!」

「新幹線ならまだ時間は十分にありますけど」

「違います。踏切! 十八時三分頃に踏切に着くと、かなり長い時間止められるんです!」

言いながら美澄は走り出し、久賀も並んで走る。

「もう少し早く気づけばよかった……」

へろへろとスピードが落ちた美澄の右手を久賀が引く。
軽いリュックが、その背中で元気よく跳ねていた。
盤上でやわらかく動くうつくしい手は、意志を持って美澄の手を包む。
季節をまたぐ空気が風となって、耳元で鳴っていた。

「間に合った……」

帰宅ラッシュで、車も人も次々と踏切を渡っていく。
まもなく警報音が鳴り、重そうなエコバッグを持った女性が、降りてくる遮断機の下を小走りに駆け抜けた。
その様子を久賀は真剣に見つめ、そんな久賀の横顔を美澄は微笑みとともに見つめる。

やがて、通常より遅いスピードで電車がやってきた。
数両行き過ぎたところでブレーキ音がして、踏切の上で電車は停止する。
久賀の目がわずかに見開かれた。

「ここは信号があるんでしたね」

「やっぱりご存知でしたか。先生に見せられてよかった」