「日藤先生は何て?」

「師匠は『何か変えてみるのも手かもしれないな』って」

「そういうこともありますね」

将棋の勉強法に関して、久賀は基本的に否定はしない。
ただ、合うも合わないも、半年から一年かけなければ見えてこないので、安易に勧めることもしない。

「手っ取り早いのは居飛車の勉強をしてみることなんでしょうけど」

「うん」

居飛車と振り飛車は根本的な感覚が違う。
将棋を始めた頃から飛車を振ってきた美澄には、居飛車はまるで違うゲームのように遠く感じる。

「先生は何でも指せますよね」

「勝てないから悪足掻きをくり返した結果です」

「そんなことないです。優秀なんですよ」

居飛車かぁ、というため息はコーヒーカップの中で響いた。

男性棋士には居飛車党が多く、定跡も整備されてきている。
内容もかなり高度なので、ひと通りさらうだけでも膨大な量だ。
ちょっと勉強してみる、程度の覚悟では難しいだろう。

「古関さん」

居飛車の勉強をするということは、これまでやってきた振り飛車の勉強時間を削ることになる。
居飛車の戦法をすぐに使えるわけではないので、一時的には勝率も落ちるかもしれない。

「古関さん、もし時間があるなら、ご飯でも食べに行きませんか?」

「……でも、女流って振り飛車多いんですよね。対抗形少ないのに、居飛車の勉強しても効率悪そうじゃないですか。無駄ではないでしょうけど」

「……そうですね」

玄関ドアが開いて、誰かが駆け込んでくる足音がする。
ふたりともそちらの方へ視線を向けた。

「古関さーん、姉ちゃーん、ラーメン食べに行かなーい? ……あ、夏紀くん、来てたの」

リビングの入口で馨は立ち止まり、気まずそうに顔を歪める。

「ラーメンですか? 行きます。先生も時間大丈夫なら一緒に行きませんか?」

「ああ、はい」

「私、綾音さん呼んできますね」

美澄がリビングを出て行くと、馨は手を合わせて久賀に謝罪した。

「夏紀くん、ごめん!」

「いや」

「知らなかったとはいえ、本当にごめん!」

「大丈夫。全然誘えてなかったから」

自嘲気味に言って肩を落とす。
馨のシャツはボタンがかけ違えていたが、相手が相手なので指摘しない。

「え……付き合ってて誘えないってことあるの?」

「あのひとの頭の中には将棋しかない」

「おお、いいねぇ」

笑う馨をひと睨みしてから、久賀はコーヒーを呷った。