階下でチャイムが鳴っても、綾音が玄関に向かう足音が聞こえたので、美澄は棋譜から顔を上げなかった。
苦い敗戦譜に向かって、ダイブするように突っ伏す。
ゴンッと大きな音がした。

女流棋戦に出るようになって四ヶ月が経つ。

初陣は研究会でやさしく接してくれた先輩と当たり、うれしい気持ちで対局に向かった。
しかし、持ち時間は二時間もあるのに、三十分しか使ってもらえず吹き飛ばされた。

先日は優勢に立ったのに千日手に持ち込まれて、指し直しの末負けた。
鋭く斬られる将棋なら久賀や馨で経験しているが、泥沼を這うように粘られる恐怖はまた別物だった。
ここはやはり甘い世界ではない。

負けたことはもちろん悔しいけれど、強くなっている実感がないことが苦しい。
この感覚を味わうことももう幾度目かになるので、こういう時こそ腐らず努力を続けるべき、と頭ではわかっている。

『僕が保障します。あなたの努力は正しい。ちゃんと前に進んでいます』

行き詰まるたび思い出す御守りは、同時に、見合うだけの努力を続けなさい、という叱咤でもあった。

「頑張ろ……」

ウォーミングアップに詰将棋を解こうと本を開いたとき、ノックの音と、美澄ちゃーん、と呼ぶ綾音の声がした。

「お客さん」

ドアを開けると、綾音は階下を指差して言った。

「私にですか?」

「リビングに通したから」

「ありがとうございます」

綾音の人差し指が、今度は美澄の額に突き立てられる。

「ここ、赤いよ」

えへへ、と笑って額をこすり、美澄は階段を降りた。

「先生!」

リビングのソファーに見えた背中は、青いストライプのシャツだった。
ふり返った久賀は、美澄を認めてふわりと微笑む。

「どうしたんですか? あ、今お茶淹れますね」

コーヒーメーカーに豆と水を入れて、スイッチを押す。
毎日の慣れた作業なのに、手元が覚束なかった。
それでもどうにか香ばしい香りが立ち上る。

「さっき連絡は入れたんですけど」

「すみません。電話見てませんでした」

「そうだと思った。まあ、急だったし」

菓子盆にせんべいをあけて、久賀の前に出す。
電話やメッセージのやり取りはしているが、会うのは久しぶりで、美澄は緊張して固くなっていた。

「今日は倶楽部お休みですよね。何かこっちで用事でしたか?」

「うん。ちょっと」

美澄はカップにコーヒーを淹れて、久賀に出した。
自身には砂糖とミルクを足す。

「棋譜、見ました」

カクッと美澄の首が折れる。

「……すみません。不甲斐ない将棋で。ちょっと行き詰まってて」

しょげる姿に、ふふふ、と久賀は笑う。

「勝てはしませんでしたが、努力の跡はわかります」

「ありがとうございます。やる気出ました」

美澄が微笑むと、久賀も笑う。
たったこれだけのことで、身体の内側にエネルギーが行き渡るのを感じた。