黒いままのコーヒーを、美澄はゆっくりひと口飲む。

「おいしい。もしかして、あの?」

「はい」

『彩路』。
駅ビルの中にある、地元コーヒー店のオリジナルブレンドのひとつ。
結局ここで飲むことはなかった味を、二年越しに味わう。
さらりと軽い、そういえばこんな味だったっけ。

カウンターに腰かけて、久賀も同じコーヒーを飲んでいた。

何年も着ているものなのか、それとも最近買ったものなのか判然としない黒いチェックのシャツと黒いパーカー。
段級位を記したプレート。
小さな手持ち金庫。
ここは何も変わらない。
受付に形ばかり置いているクリスマスツリーも、毎年使い回しているものだった。
せっかくのコーヒーを普段の三倍のペースで飲み干しても、美澄はしばらくカップをくるくると弄んでいた。
久賀もずっとコーヒーを口に運んでいる。

「先生、あの、」

「はい」

思い切って声をかけたものの、久賀の労るような眼差しにひるんで、結局逃げ出してしまう。

「将棋、指しませんか?」

久賀は怪訝な顔をしたものの、

「まあ、いいですよ」

とノートパソコンをカウンターに移動させた。

「十秒でいいですか?」

駒箱を美澄に押しつけ、久賀はチェスクロックを設定する。
駒箱を開けるのは上位者。
そのルールの厳格さを知る美澄は、初めて譲られたそれに触れられない。

「先生、開けてください」

「あなたはプロで、僕はアマチュアなのに?」

「先生と生徒です」

「もう違います」

決然とした声で告げられ、美澄は潤みそうになる目元に力を入れた。

「“卒業”ですか?」

「ええ」

禁忌に触れるがごとく、美澄はしずかに駒箱に手を伸ばす。
盤の上に駒を広げた途端、美澄の伸ばした指をかわすように、久賀はさらりと玉将をさらった。
将棋に関して、美澄の考えることなどお見通しだ。
取り残された王将は、まだ指に馴染まない。