「悪口ばっかり」

「愛情でしょ。かなり重めの」

スマートフォンを馨に返し、美澄は糸こんにゃくを切る。

「夏紀くんがあんなに頻繁にこっち来てたの、本当に仕事だと思ってた?」

「違うんですか?」

「ほとんどはメールや電話で済む話でしょ」

馨が里芋に竹串を刺すと、すっ、と刺さって持ち上がった。

「どの道、女流棋士になったんだから『先生』からは卒業」

「卒業……ですか?」

「だって、君はプロなんだよ? 俺だって棋譜の添削はもうしないよ」

それでも馨との縁は切れない。
同じ世界に身を置く師匠だからだ。
仕事で一緒になることもあるだろうし、そうでなくても日藤家を訪ねることはあるだろう。
でも久賀は「先生」であっても「師匠」ではない。
その差がここになって大きくなっている。

湯通しした里芋をザルにあけると、またしても馨の眼鏡が曇った。
外して、今度はパンツのポケットに突っ込む。
眼鏡を通さず、馨は真剣な眼差しを美澄に向けた。

「もうあと何年かここにいてもいいし、都内のどこかで一人暮らししてもいいと思う。部屋探しも手伝う。保証人が必要なら俺がなる。地元に帰るとか、まったく知らない土地に行くなら、そこで仕事ができるようにツテを探してみる。君の望みに添うように、俺にできることは何でもする」

充満する蒸気とは別の理由で、美澄の頬が赤らむ。

「……ありがとうございます。そんな風に言われたの初めてで、なんだかドキドキします」

美澄の反応を見て自分の言葉を咀嚼した馨も、恥ずかしそうに破顔した。

「なんかちょっとプロポーズっぽかったね。俺もこんなこと言ったの初めて」

茹で上がった里芋を、馨は鶏ガラスープの中に投入した。

「俺にできる応援は何でもするけど、でも俺から夏紀くんには何も言わないよ。だってそれは、将棋とは別の話でしょ」

馨は、こんにゃく入れるの? とザルを持ってうろうろする。

「待ってください。鶏肉忘れてました」

馨がザルを持ったまま待っているので、急いで鶏肉をブツブツと切る。

「帰りたい? 夏紀くんのところ」

さっきと同じ問いに美澄は手を止めた。
すぐそばにある馨の瞳には、窓からの冬の光が差している。

美澄が自分で選んだ師匠ではなかった。
知り合ってからたった一年半。
たった四つ上。
けれど、友人とも親とも恋人とも違う感覚で、ひょろりと細い青年に信頼を寄せる。

「帰りたいです」

馨はザルを置いて、美澄の手から包丁を取り上げた。

「今から行ってきたら? 新幹線、まだ間に合うでしょ?」

美澄よりサクサクと切り終えて鍋に入れる。

「たまに将棋じゃない話しておいで。夏紀くんと」

美澄は壁にかけられた時計を見て、そのまま冷蔵庫に視線を移す。
マグネットで止められた月間予定表は角が少しめくれて、長い影を作っている。
冬の夕暮れは、スピードを上げて進んでいた。