ぐつぐつと煮立つ鍋には、どんよりとした灰汁(あく)が浮かんでいる。
美澄はただ黙って、その灰汁が増えていく様子を見ていた。

「いい匂ーい。鶏ガラ?」

二階から降りてきた綾音の声に、美澄は顔を上げた。

「はい。昨日実家から里芋送られてきて」

「今日は里芋汁か」

「師匠がお好きなので」

今日、馨は指導対局のために教室を訪れていた。
日曜日なので真美も辰夫も教室で、家には美澄と綾音しかいない。

「灰汁、すくわないの?」

「あ、そうでした」

綾音に指摘され、美澄はレードルで雨雲のようなそれをすくい取った。

「悩み事?」

言いながら綾音は部屋着の袖をまくって、シンクに転がしてあった里芋の皮を剥き始める。

「……いえ」

「そう」

綾音はあっさりと引き取った。
さりさりという包丁の音がふたつ響いている。

「これ、手が疲れるね」

「ですね。うー、滑る」

「ご両親が作った里芋?」

「祖父母です。新鮮なので、全部皮剥いて残りは冷凍しちゃおうと思って」

「でも結構量あるから、皮剥くの大変だよね。馨にやらせよう。あいつ器用だから。あ、帰ってきた」

ドアの音がすると、綾音はさっと手を洗ってキッチンを出ていった。
まもなくして馨が顔を出す。
今日は黒縁の眼鏡をかけているが度は入っていない。

「師匠、お疲れさまです」

「お疲れさま。里芋汁?」

「はい」

「これ、皮剥けばいいの?」

「大丈夫です。師匠は休んでてください」

「気にしなくていいよ。姉ちゃん命令だから」

馨は笑って、黒いニットの袖をまくった。
皮を剥く手は器用で、里芋の白く艶やかな肌に包丁の線がうつくしい。

「お上手ですね」

「一応自炊してるからね」

里芋は馨にまかせて、美澄はゴボウをささがきにしていく。

「師匠、二十四日対局ついてますけど、そのあとこちらにいらっしゃいます?」

「どうしようかな」

「綾音さんはデートだし、三人だとケーキ余るんです」

注文したケーキの大きさを手で示して眉を下げると馨は、わかった、とうなずいた。

「じゃあ寄る。でも泊まらないで帰るよ」

馨の自宅アパートは、日藤家から駅だと三つ離れている。
直接往き来するともっと近く、馨は自転車かタクシーを使うことが多い。

「師匠、もっと将棋会館に近い方がいいんじゃないですか?」

棋士は、千駄ヶ谷駅に乗り換えなしで行ける中央線か総武線の沿線に住むことが多いらしい。
しかし馨は、実家と奥沼七段の将棋教室に行くことも考えて今のアパートを選んだ。