「最後の三段リーグのとき、倒れたって話しましたよね」

「はい」

美澄も経験のあるあの極限状態は、後から冷静に考えると愚かなことだと自覚できる。
しかし渦中にいる時は、ほんの少し息をつくことさえ罪のような気がして、寝ている間でさえ焦燥感に襲われるほどだった。

「最後の最後になるまで、僕は本気になれませんでした。将棋の勉強は毎日していましたけど、友達と遊んだり、ゲームをしたり、大学も普通に四年で卒業しました」

「それの何が悪いんですか?」

「悪いことではないのかもしれません。でも、僕はいつも言い訳してました。『勉強する時間がなかったから』『本気を出せば勝てるんだ』って。本気を出すのが怖かった。僕は本気で負けることさえできていなかったんです」

全身全霊をかけて指した将棋で負けると、自分の存在価値が揺らぐ。
そのダメージは少しずつ少しずつ核のようなものを削って、いつしかあの世とこの世のあわいに追い詰められる。
何の気なしに、そのラインを越えてしまいそうな。
心を守るために目をそらすことは、人間としては自然な防御だとも言える。

「本気を出すって難しいでしょ。『自分は本気で臨んだ』と自信を持って言えるには、並々ならぬ努力が必要です。そうそうできることじゃない」

美澄の胸も生々しく痛む。
本当に本気で取り組めているのか、これが全力なのか、誰も教えてくれない。

「三段の頃、僕にはお付き合いしている女性がいました」

え! と飛び上がった美澄を、久賀は横目で睨む。

「何ですか」

「すみません。予想外過ぎる話だったので」

「誰だって多少の恋愛経験くらいあるでしょう」

「……まあ、そうですね」

経験と呼べるほどの経験がない美澄は、少し見栄を張った。
本当のところ、久賀が誰かを好きになるなど考えたくなかった。
とろりとぬるくなったココアは、ココアパウダーの粉っぽさしか感じない。

「今はわかりませんが、あの頃彼女のいる奨励会員は少数派で、侮られる要因のひとつになっていました。いえ、勝っていれば何をしようが文句を言われない世界です。でも僕は勝てなかったので、浮わついているのだと思われていました」

周りの評価が正しいとは限らないが、そういう中に身を置いていると、その影響は避けられない。