帰ります、と言ったのに、久賀は何かためらって動かない。
美澄も先日以来の照れがあって、どう声をかけたものかわからずにいた。
すると、意を決したように久賀が顔を上げる。

「新幹線の時間まで間があるので、もしよかったら、少し駅前で時間を潰すのに付き合ってもらえたら、と」

語尾は空気に溶けるように小さく消えた。
かつてない久賀からの誘いに驚きつつも、美澄は急いで返事をする。

「新幹線ホームまでお見送りしますよ」

「いえ、そこまでは。あなたの時間は貴重ですから」

「じゃあ、準備します! ちょっと……ちょっとだけ待っててくださいね!」

美澄はくるりと踵を返して、二階へ続く階段をまろぶように駆けていく。
開けたままのドアから赤と黄色の背中を見送って、久賀はもう一度笑った。

「お待たせしました!」

戻ってきた美澄がシックな紺色のワンピースに着替えていたので、久賀は目を見張った。

「どうしたんですか?」

「さすがにもう学生じゃないので、TPOを身につけました」

久賀は、へぇ、と気の抜けた声を出す。

「これ綾音さんのお下がりです」

「綾音は服装だけはまともでしたね」

とてもいい方です、とたしなめて、美澄はバッグを担ぎ直した。

「それで、どこ行きましょうか。近いところだと商店街ですか?」

都心から離れたこの辺りは駅も小さく簡素で、ドラッグストアくらいしか入っていない。
そこで久賀と美澄は線路沿いに並ぶ商店街へ向かった。
団子屋の脇ではピラカンサが、枝をしならせるほどみっしりと赤い実をつけている。

「東京に住んで一年半ですか。もうずいぶん慣れたでしょう」

「それが……思ってたよりずっと閑静なので、全然東京に住んでる実感がないです」

ふふっと久賀は笑った。

初めて新宿に行ったときは「毎日が祭りなの!?」と思ったものだが、それも東京のごく一部の姿であるらしい。
日々の営みは、どこにいても変わらない姿でそこにある。

「先生はやっぱり東京が『故郷』って感じですか?」

「いえ、僕の父は転勤が多くて、中学生までに五回引っ越しました。そのせいか、「地元」とか「故郷」という感覚がありません」

へえ、と美澄は久賀を見上げる。
その横顔は「故郷」という言葉にさえ頓着していないようだった。

「でも、将棋を覚えたのはあさひ将棋倶楽部なので、あそこが原点という感じはします」

美澄にとって大切な場所が、久賀にとっても特別な場所。
その事実に、美澄は頬をゆるめてほくほくと歩いた。