「おーい、雨宮(あまみや)

 間延びした声に呼び留められて、雨宮律(あまみやりつ)は後ろを振り返る。
 薄ぶちの眼鏡をした40半ばほど男がA4用紙を片手に小走りで向かってくる。担任の先生だということに気が付いた律は、足を止めた。

「すまんな、帰り際に」
「いえ」
「この前お前が休んだ時に配ったプリントだ。悪い、すっかり渡し忘れてた」

 差し出されたプリントに目をやると、そこには『進路希望調査』と太字で書かれている。

「お前は成績もいいし、今の成績キープすればまあ大丈夫だろ。高2でまだ早いと思うかもしれんが、志望校選びは重要なことだからしっかり考えとけよ」
「……はい」

 ぽん、と軽く肩を叩かれ、担任は去っていった。渡された用紙をじっと見つめ、律は軽く息をつく。

 大人の言う大事な将来とは、大概相場が決まっている。たった1枚の用紙で自分の未来が左右されているかと思うと、うんざりした。

 律は怒りをぶつけるように用紙を鞄の奥底に無造作に押し込んだ。代わりにイヤホンを取り出して、昨日夜遅くまで作業していた曲を流しながらバイト先へ向かうことにした。

 初めて動画サイトに曲を投稿したのは高校1年の3月5日のことだ。

 律にとって初めて作曲したそれは決して満足のいくようなものではなかった。

 伝えたい気持ちの1%も歌詞として当てはめられなかった。お粗末な出来だったろう。

 それでも動画を投稿することにした。
 世界に何十、何万、星の数ほどある音楽の中に埋もれて誰の心に残らずともいいと、思っていたはずだった。

 そのコメントが来るまでは。

『ほんの少しだけ、自分を許そうと思えました』 

 ずるい、と律はそのコメントを読んで思った。
 自分の作った音楽が画面の向こう側の顔も知らない誰かにとって、何かを動かしたのだとしたら。

 それだけのことが───死ぬほど、嬉しいだなんて知りたくなかった。



 律のバイト先は律の母方の叔父が経営するジャズバー『Midnight blue』だ。

 高校から家まで間を途中下車して、雑踏としたネオン街の外れにそれはある。

 叔父から預かっている鍵でドアを開け、店の中へ入った。さほど広くない店内には客用のテーブルとイスが数組あり、淡いライトで照らされた小ステージには窮屈そうにグランドピアノが鎮座している。

「やるか」

 制服のジャケットを脱ぎ、深呼吸をした。
 嗅ぎ慣れたウィスキーのつんとした香りが鼻を掠める。

 仕事の内容は簡単な雑務だ。
 掃除と洗い物ほどであとは自由にしていいと叔父から言われている。まずは床掃除から始めるか、と律はモップを取りにスタッフルームへ向かった。



 音楽に限らず、創作というものは厄介なものだ。
 一度行き詰まると、とことん進まなくなる。まるで出口のない帰路を延々と歩かされているような気分だった。

「ああ、びっくりするぐらいなんも思い浮かばない……」

 律は目の前にあるPCのピアノロール画面を睨みつけ、頭を掻きまわした。
 
 昨日と全く変わらない画面を見るのすら嫌になってきて、天井を見上げた。

 この部屋はもともとリハーサル室だったが、今や物置として、無造作に積まれたレコードやら使われていない楽器やらが山積みになっている。

 その部屋の一角に、無理やりPCと電子ピアノを置いている。ほんの二畳ほどのスペースが律の作業部屋だ。

 諸事情あって自宅で作業が来ないため、律は無理を言って叔父に頼んだのである。バイト代の代わりとしてこの一室を提供してほしい、と。
 
 スマホを確認すると、作業を開始してから3時間は経っていた。

 コンビニでも行って気分転換でもしよう、と肩を回しながら立ち上がった。



 ドアを開けると、耳心地のいい落ち着いたピアノの旋律が鮮明に聞こえてきた。
 店内には、見知った常連客がグラスを手に各々演奏に耳を傾けている。
 バーカウンターには律もよく顔を合わせる常連の老年男性がいた。その男性と話に花を咲かせていたバーテンダーの男が律に気付く。

「おっ、律。精が出るな」
和久(かずひさ)叔父さん」

 今年で50とは思えない人懐っこい笑顔のバーテンダーの男は、律の母方の叔父であり、このジャズバーを経営する店長の朝川和久(あさがわかずひさ)だ。

「どうよ、順調か?」
「……まあ。割と」
「うはは、嘘こけ。調子いい時の顔じゃねえだろ、お前」

 即座に嘘が見破られるのは、流石律が生まれた時からの付き合いなだけある。

「ちょっとコンビニ行ってくる」
「まだ寒いからなんか羽織って行けよ」
「はいはい」
「あと歯磨き粉も買ってきてくれ。一番すーすーするやつ」
「手数料取るけど?」
「お前バイト代減らすぞ」

 叔父との軽口もそこそこに老年男性に軽く会釈して立ち去ろうとして、彼に引き留められた。
 振り返ると老年男性が柔らかく笑みを浮かべ、ただ一つだけ質問をした。

「音楽は楽しいかい?」

 律は何も言えないまま、ぎこちない曖昧な笑みを返してその場を後にした。



 春の夜が律は一番好きだった。

 コンビニまでの道沿い、桜並木には一面桜の花びらが落ちて桜色の絨毯が広がっている。
 
 まだ背筋をなぞるような寒さに思わず背を丸めながら、たどり着いたコンビニで眠気覚ましのコーヒーとチョコの菓子を購入する。律はイートインスペースでひと休みすることにした。

 コーヒーを一口飲んでから、スマホで自分の動画サイトのチャンネルを開いてみる。投稿した曲をタップする、相変わらず再生回数は100回にも満たない。コメントも律のものを抜けば一件だけ。

『ほんの少しだけ、自分を許そうと思えました』

 たった20文字の感想を、行き詰るたび読み返した。
 初めて投稿した曲から今日まで約1か月程度たったが、次回作はいまだに完成していない。  

(この人は、俺の曲が投稿されるのを待っていてくれるだろうか)

 何気なく、その人のアイコンをタップしてアカウントを見てみる。

 アカウント名は『透』。

 想像通り、なにも投稿していないROM専用のアカウントだった。ただ、紹介文にURLのリンクが貼ってある。
 そこをタップすると、SNSのサイトに繋がった。フォロワー数も30人ほどしかいないアカウントだ。

 同じく名前は『透』。
 一言の投稿が続いている。読み飛ばしながらスクロールして、律はぴたりと指を止めた。ただ画像が一枚投稿されている呟きがあった。

「あ」

 思わず声が出る。この気持ちをどうやって言葉に表せばいいか、分からなかった。 

 そのイラストの投稿日は3月9日。
 薄花色を真っ暗な夜に上から数滴溶かしたような背景に一人の少女を頼りない月光が照らしている。
 胸元を握りしめ、酸素のない息すら吸えない世界でそれでも歌おうとする少女。そんなイラストだ。

 そしてそれは、律が作曲した歌詞のワンフレーズを切り取ったものだと、すぐに分かった。

 心臓が早鐘を打っている。

 律の頭の中で空中分解していた音たちが一斉に整列し始める。

 頭の中に音たちを書き写さなければ手のひらから溢れて零れてしまいそうだ。律は慌てて残りのコーヒーをあおった。熱くて少しだけ咽る。
 しかし、その熱さを忘れるほどの高揚感が律を支配していた。

 早く。早く、鍵盤を叩かなければ!  

 この音たちが逃げてしまわないように。ひと音も逃してしまわないように。
 店員からの奇異の視線にも構わず、律は飲み干したコーヒーカップをゴミ箱に放り投げて店内を出る。次第に足が駆けていく。

 律の夜はまだ始まったばかりだった。