-----恋に落ちる。

 その言葉の意味を知ったのは、彼に出会った
時だった。

 父に連れられ出席した、サカキグループの創立
記念パーティー。飲食店経営の他、食品加工も
手掛ける大手飲食企業であるサカキグループは、
安永財閥系列の金融機関と取引がある。

 その関係で今日の式典に招待されたのだが……

 父の傍ら、見知った顔のいないこの広い会場
で、“ご挨拶”ばかりを繰り返していた紫月は、
少々疲れていた。

 本来なら、自分の代わりに同席するはずだっ
た母は体調を崩し、床に()している。
 だから今日は仕方ない。
 安永の名に恥じぬよう、立派に母の代役を
務めよう。そう心に決め、紫月は笑い過ぎで
筋肉痛になりそうな両頬に、そっと触れた。

 「お飲み物はいかがですか?」

 不意に、斜め後ろから声がかかった。
 振り向けば、いくつかのグラスを銀のトレー
に載せ、ウエイターが笑みを向けている。

 「ありがとう。いただきます」

 未成年ということもあって酒類を口にする
わけにもいかず、紫月は背の高いシャンパン
グラスを避け、その後ろにひとつだけ残って
いたオレンジジュースを手に取った。

 一礼してウエイターが去ってゆく。

 その背中を見送り、グラスに口を付けた時
だった。

 万雷の拍手と共に広い会場のステージに上が
ったその人を見た瞬間、紫月は息を止めた。



-----立ち姿が美しい、その人。



 マイクの前に立ち、自分に向けられる憧憬の
眼差しを受け止めるその顔は理知的で、一分の
隙もない。

 知性と容姿を兼ね備えた、完璧な男性。

 それが榊一久の第一印象で、紫月はおそらく、
これまでの人生で初めて、“恋に落ちる”という
言葉の意味を知ったのだった。

 やがて、主催側の挨拶を終え、ステージから
下りて来た彼は数人の招待客と挨拶を交わしな
がら父の元へとやってきた。少し離れた場所か
ら談笑する二人の様子を眺める紫月の心臓は、
どきどきと早なっている。

 まるで、100メートル走を3本くらい走った
後のようだ。

 ひとり、そんなことを思っていた紫月の瞳は
やはり、榊一久、その人に釘付けで、こちらを
振り返った父が自分を手招きした時は、跳ねた
心臓が口から飛び出してしまいそうだった。

 「娘の紫月です。このたびは、盛大な祝賀会
の席にお招きいただき、大変光栄です」

 父の傍らに立ち、彼に会釈する。

 満足そうに笑みを浮かべる父の顔を視界の隅
で捉えながら彼を見上げると、紫月は恥じらい
に頬を染めた。

 今、恋したばかりのその人が、自分を見つめ
ている。

 「こちらこそ、お会いできて大変光栄です。
お父様からお話は兼ね兼ね伺っておりましたが、
なるほど、お美しい。才色兼備という言葉は、
あなたのためにあるようですね」

 「身に余るお言葉、嬉しく存じます」

 これはお世辞だ。社交辞令だ。

 そんなことは百も承知だったが、紫月は彼か
ら掛けられた賛辞の言葉に、頬を緩めずにはい
られなかった。