私は失くしてしまった記憶を知るのが怖かった。
きっと、前も同じ事で傷ついた。
そして立ち直れたのだろうか?
仮に立ち直れなかったとしても受け入れる様に頑張った筈だ。
それなのに又、同じ苦しみを味わい、立ち直るように頑張らないと
ならないのかと思うと辛くて身体の痛みも相まって死にたいと
心の何処かで感じている。

誰が私に何時、残酷にも失った記憶を言い渡すのだろう?
出来ればその残酷な印籠を渡すのはカズ君ではありませんように。
今の私には涙を我慢する力は残っていない・・そして誰も困らせたくないし
誰にも同情も憐みも懸けて貰いたくない。
今以上に惨めな私を晒したくない。

あ~私はあんなに頑張って中学2年生の何もかも失って
絶望した時から変われなかったんだ。
どんなに頑張って良い大学に入って、司法試験に合格しても
1人で立っていられない程傷つくんだ・・・

先生、先生、あの時、どうして私は先生の手を放してしまったの
だろうか?
頑張れると思った。先生を巻き込んではいけないと思ったのに。
先生、私はあの頃よりも、もっともっと情けない人間になってしまった
ようです。
ゴメンなさい先生。
偉そうに言ってゴメンなさい。
先生を傷つけてゴメンなさい。
私は、柔らく笑い穏やかに話す先生と呼ぶ誰かを思い浮かべていた。
もう、あの時のように差し伸べられる手は無い・・・・
先生って 誰????
朧げな顔の輪郭、姿、でも 全てがボンヤリしている
だから、それが誰かはハッキリしない・・・もしかして夢を見てた?

事故にあった私は記憶を失くしただけではなく大切な何かも
失くしていくのだろうか?
夢か現か解らない世界に堕ちるの?????
怖い・・・・・
脚が、指先が震えるのを悟られない様にギュッと拳を握るが
可笑しなことに自分では力いっぱい握っているつもりなのに
ふんわりとしか拳は曲がっていなかった。


私の流す涙をカズ君が拭ってくれるが、その優しさが距離が残酷だって
なんで気がついてくれないのだろう。

「カズ兄、大丈夫だよ。ティッシュを渡してくれれば自分で拭きとれるから」
「柚菜は忘れているのかもしれないけれど、柚菜は俺をカズ兄とは
もう呼んでいなかったんだよ。だからカズ兄って呼ぶのは止めて。」
「え。。。」
私、カズ君をなんて呼んでいたの???
もしかして・・
『お義兄さん』って呼ぶ様に言われたのだろうか?
そんな・・嫌だ・・
「ゴメンなさい。なんて呼んでいたのか記憶に無くて・・・」
悔しくて、悲しくてカズ君の目を逸らして口の中でモグモグと
言葉にするしか出来ない。
「ゴメン。困らせるつもりで言ったんじゃないんだ。」
そう言ってカズ君は指輪が光る左手で私の頬を撫でる。
こんなの小さい時以来だ・・ダメだよこんな事しちゃ・・・
そう言わないといけないのに、その優しくて安心出来る
手を振り払う事は出来なかった。
それよりも、もっと、もっとと思ってしまう
お姉ちゃん、ゴメンなさい。
カズ君を未だ好きでゴメンなさい。
左手に光る小さなリングはなんて破壊力が抜群なんだろう。
私の心も涙腺も崩壊寸前だった。
この痛みは好きなってはいけない人を好きになった罰ですか?

「一那。」
頭の中で色々な思いが駆け巡っていて一瞬、カズ君の口から紡がれた言葉が
理解出来なかった。
「   え?」
「柚菜は俺の事を一那って呼び捨てで呼んでいたよ。」
「うそだ~ それは無いよ。」

100歩譲ってカズ君とは呼ぶことはあるかもしれないけれど
呼び捨ては全体にに無い!

「嘘じゃないよ。信じないなら お義母さんが来たら聞いてごらん。
勿論、お義父さんでも良いけど」
「ねえ。今日って4月1日じゃないよね?」
「うん、違うね・・」

漸く昔のような優しい笑顔で答えてくれたけれど・・何故かシックリこない。

「今日、お母さんは居ないの?」
「うん。さっきまで居たんだけれど、俺と交代して今は家に帰ってるよ。」
そうか・・結構無理させてしまっているんだよね。
「ねえ、私 もう大丈夫だから・・帰っても良いよ。
それに 会社行かないとでしょ?」

そう口にするとカズ君は少しムッとしたように

「柚菜の一大事にどうして会社が優先になるの?
柚菜を優先するのが当たり前でしょ。親父だってそれで良いと
言ってくれてるし、柚菜が良くなったら、取り返すぐらい直ぐだから。」

カズ君は大学に入学した時からカズ君ママの実家の姓を名乗り、
加瀬グループでアルバイトとして働き、卒業と同時に入社した。
当然、素性は役員のごく一部の人間以外に知らされておらず
一般社員として加瀬グループで従事している。
誰も隣で働いている彼がの後継者だとは気がついてない。

そこで凄く頑張っていたのは覚えている。
何時だって、一生懸命に仕事に向き合っていた。
急に私はカズ君がソファーでPCを膝に置きながら仕事をしている
姿が脳裏に浮かんだ。でも、そこの景色は記憶に無くて・・
なんで、そんな姿を想像したんだろう・・・・

あれ・・・・さっき、カズ君 お母さんの事”お義母さん”って呼んでた。
百合ママって呼んでいたのに・・・・お父さんの事も”お義父さん”って
口にしていた。今まではオジサンだったのに・・・・

あ~ ちゃんと私は自分で正解を導いてしまったようだ・・・・

白い天井がまるで金魚鉢の中に居る様にキラキラと光るのは
何故なんだろう。

「柚菜、何処が痛む? 苦しいの?」
「大丈夫・・」多分ね・・・・慣れてるから・・
「じゃあなんで泣いてるの?」
そうか・・・私 泣いているのか・・・・
でも今は、身体の痛みって思ってくれるよね?
だから泣いても良いよね・・・
お願い、もう少ししたら、ちゃんと義妹を演じるから今は泣かせて。

私は、泣くのを止めるのを止めた。

とめどなく溢れる涙を私は拭いもせずにそのままにした。
オロオロする看護師さんには申し訳ないと思ったけれど、
私はここでキチンと泣かないと義妹を演じられないと解っていたから。
カズ君はそんな私の手を握り、泣かせてくれたのは
どういう意図なんだろう。
でも、ここでカズ君に対する気持ちに終止符を打たないと・・・
不倫は罪だ。
慰謝料を払う義務も出て来る案件。
弁護士になろうとしている自分が犯してはならない罪。
この想いは断ち切らなくてはならない。

だから、私はカズ君の手を払った。

カズ君は見た事が無いほど歪んだ顔をし、真っ青になっていた。
ごめんなさい。今は私はそんなカズ君を思い遣れるほど優しい気持ちを
持ち合わせられない位に一杯一杯なの。
私との距離を取ってくれるなら恨んでくれても怒ってくれても
呆れてくれても良い。
その手に触る資格を私は持っていない。

それでもカズ君が大好き。だからこんな自分は消えてしまった方が良い。
「もう、生きていたくない・・・」
それは心の声なのか口に出したのか私にはもう、解らないほどグチャグチャな
感情。

そんなグチャグチャな感情を目覚めては思い出しを繰り返し一人苦しんで
時が流れるのを、痛みが緩和されるのを白い壁と見慣れない天井を見ながら
やり過ごす。
不思議と夜中はそんな風に感情も昂る事が無いのか、薬が効いているのか
朝までグッスリと寝てしまったみたいだった。
朦朧と過ごす日中は身体と心の痛みに涙した。