何一つ、夢中になれたことなんてなかった。平坦で色褪せた僕の日常に、美波さんはたった一滴、透き通る水を落とした。彼女は初めて、僕越しに僕の絵だけを見て笑った。

夢中になりたいかもしれなかった。美波さんが必死に追いかける僕の絵を、僕は、もうおざなりにしない、したくないと、思っているのかもしれなかった。

そうだ。僕は嬉しかった。
白先輩が僕に褒められて嬉しかったと言ったように、僕だって、美波さんに褒められて嬉しかったのだ。

こんなに簡単なことを理解するのに、どれだけ時間がかかったのだろう。


「……もし、犬飼くんがまた美術部に戻ってきてくれたら、みんな喜ぶと思う。そのことだけは忘れないでね」


寄りかかっていた壁から背中を離し、白先輩は静かに歩き出した。

あの日、天使は死んだ。やっぱり誰しも、綺麗なだけではいられないと確信した。
それでも、いま僕に慈悲を与えた彼女は「綺麗」という以外、何と言い表せば良いのだろう。

遠ざかる背中を眺めながら、ゆっくり息を吐く。
今日、僕はようやく、自分のためだけに呼吸をしている、そんな気がした。