Diary ~あなたに会いたい~

 企業という組織に勤めている以上、辞令
は絶対だ。
断ればどういうことになるかなど、十分すぎ
るほどわかっていた。



-----それでも。



 彼女と離れて遠くへ行くという選択は、今の
俺にできる気がしなかった。
 「頭」で合理的に考えれば“転勤”という選択
しかあり得ない。
 けれど、「心」が選ぶのは“ゆづる”ばかりで、
こればかりはどうしようもなかった。

 俺はさりげなく尚美の視線をかわして、窓の
横にある掛け時計に目をやった。



-------時刻は12時3分。



 いつもの席で、いつものカクテルを飲みながら、
彼女は俺を待っているだろうか?

 ふと、彼女の笑みを思い出して頬を緩める。
 ゆづるはきっと、待っているだろう。

 俺のことなんか待っていない、という顔をしな
がら、マスターと二人、待っているはずだ。

 今すぐ、あの店に駆けてゆきたい衝動をぐっ
と抑えて、俺は尚美を向いた。

 頬の爪痕よりも深い傷を心に負った尚美を置い
て、この部屋を出て行くことはできなかった。

 「さて、朝まで時間あるし。まずは部屋を片付け
るか。掃除道具あるんだろう?持ってきてくれる?」

 シャツの袖を捲りながら、俺は倒れた観葉植物
を顎で指した。
 尚美が、えっ、と目を丸くする。
 突然、話が変わって戸惑っているようだ。

 「いいわよ。自分でやるから」

 「そんなこと言って、もう何日もこのままだろ?」

 「そうだけど、でも……」

 「いいから。早く持ってこいよ」

 俺は観葉植物の鉢植えを起こすと、絨毯の上に
散らばった土を手で集め始めた。しぶしぶ部屋を
出て廊下に向かう尚美の背中を視界の端で見送る
と、窓の外を見上げた。

 けれど、あの日、彼女が描いた白い弓月は空の
どこにもいなかった。









 翌朝。
 浅く短い眠りから目覚めると、俺はゆづるから
受け取った紙切れをポケットにねじ込んで家を出た。