僕を、弟にしないで。僕はお義父さんの義息子になりたい


 駅から歩いて三分ほどのところに画材屋はあった。店名は『ビグモン東京』。可愛い店名だ。

 自動ドアを通って、紫月さんが画材屋の中に入る。

 紫月さんの後を追って中に入ろうとしたら、心臓がまるで、雷に驚いているみたいに、小刻みに音を立てた。画材屋に足を踏み入れる勇気が、俺にはなかった。もしもここに入ったことがきっかけで俺が絵を描き始めたら、姉ちゃんはどれだけ怒るのだろう。

 紫月さんが自動ドアに近づく。
「し、紫月さん」
「さっさと入れ」
 自動ドアが開いたところで、紫月さんは俺の手を掴んで、無理矢理俺を店の中に入れた。

 入った瞬間、まるで、電気ショックを浴びたみたいに、全身に鳥肌が立った。腰が抜けて、倒れるように床に座り込む。

「お、おい、蓮夜」
 紫月さんが俺の隣にしゃがみ込んで、心配そうに声かけてくる。俺は紫月さんなんてそっちのけで、店の壁を眺めていた。

 店の壁一面にある棚には、瓶に入った顔料が、規則正しく並んでいた。真っ赤な瓶の隣に、薄い赤色の瓶、快晴の空のように真っ青な瓶の隣に、薄い青の瓶と、顔料はグラデーションのように並んでいた。

 言葉を失って、顔料に釘付けになる。

 これを使ったら、一体何種類の絵の具が作れるのだろう。一体何時間、絵を描き続けられるのだろう? 
 描いちゃダメだと思っているハズなのに、どうしようもなく、絵を描きたい衝動に駆られた。
心臓が高鳴る。絵を描きたくてたまらない。

 叶うことなら、家のことなんか忘れて、ここで一生、絵を描いて生きていきたいとさえ思った。
 泣きたいなんて思ってないのに、瞳からどうしようもなく涙が溢れた。

 目の前には、俺が求めていた世界があった。俺が欲しい色があった。俺が、世界中にあるものの中で、一番美しいと思えるものが、そこにはあった。


「すみません、紫月さん。……綺麗すぎて、腰、抜けちゃって」
「ああ、何だ。そういうことか。驚かすなよ」
 安心したようにため息を吐いて、紫月さんは言った。
「すみません。心配してくれて、ありがとうございます」
「ああ。……腰を抜かすほど、綺麗だったか?」

「はい。まるで、楽園にいるみたいです」
 本当に、そう思った。

「これ、四千五百種類あるらしいぞ」
 顔料を見つめている俺を見ながら、紫月さんは笑う。
「え、四千五百?」
 目を見開いて、紫月さんを見る。
「ああ、すごいよな」
「はい」
 我を忘れて、壁を眺め続ける。時が止まればいいのにと思った。時が止まりさえすれば、ここで一生、絵を描くのに。

「大丈夫ですか?」
 店員さんが俺達に近づいてきた。俺を見て、店員さんは首を傾げた。紫月さんが俺の腕を掴んで、ゆっくりと身体を起き上がらせようとする。俺は紫月さんに身体を支えられて、どうにか立ち上がった。

「はい。すみません、床に座り込んでしまって」

「いえいえ、とんでもないです。絵、お好きなんですね」

「え?」

「まるで何かに取り憑かれたかのように顔料を見ていたので、そうなのかと思って」
 熱に当てられたみたいに、顔が一気に赤くなっていくのが、鏡を見なくてもわかった。

「え、俺、そんなでしたか?」
 紫月さんと店員さんを順々に見る。
「ああ、すごかったよ。そうですよね?」
「はい、とても」
 紫月さんと店員さんが笑いながら頷く。二人を見ていると、ますます顔が赤くなった。