「蓮夜は何も難しいことは考えないで、ただ俺の隣で笑っていればいいんだよ。それだけで、俺は幸せ」
「本当ですか?」
「ああ、本当だよ」
俺はコップをテーブルの上に置いてから、紫月さんの胸に顔を埋めた。両手で背中を掴んで、頭上にある紫月さんの顔を見る。
「どうした? 急にちっちゃい子供みたいに甘えて。珍しいじゃん」
「俺、死ぬまで紫月さんのそばにいたいです。紫月さんに、俺のお義父さんになって欲しいです」
ついに言ってしまった。どうしよう。こんなこと言っても、紫月さんは困るだけなのに。
「俺はお前の本当の父親にはなれないぞ?」
「それでも俺は紫月さんがいい。紫月さんじゃないと、嫌です」
俺は、本当の父親の顔を知らないし、父親がどんな性格だったのかも知らない。もしかしたら俺はそんな状態だから余計、紫月さんが良いと思っているのかもしれない。紫月さんの他に父親だと思える人がいないから、そう思っているだけなのかもしれない。
紫月さんは傍から見たら全然良い大人じゃない。鈴香さんも狩野さんも、それに母さんも、俺が紫月さんに拾われた本当の理由を知ったら、すぐに俺を紫月さんから引き離そうとするだろう。それでも、俺は紫月さんの隣にいたい。俺は過去じゃなくて、紫月さんが努力をしてくれている今を評価したい。
「蓮夜がそんなふうに言ってくれてすごく嬉しい。でも、俺は一体いつ蓮夜のことを蓮と言ってしまうかわからないから、父親にはなれない。蓮夜のそばには、できる限りいるつもりだけど」
「少なくとも今日は、蓮って呼ばれてないです」
「ああ、そうだな。でも、明日には呼んじゃうかもしれないから、今はなれない、父親には」
今は?
「じゃあ、いつならなれますか?」
「蓮夜、お前は、本当の父親を探した方がいい」
俺の両肩に手を当てて、紫月さんは言った。
「な、何で」
父親が家にいないなんて、一言も言っていないのに。
「俺にずっと、父親の話してくれなかっただろ。だから俺はずっと、父親が亡くなっているか、離婚をしているかのどっちかだと思ってた」
「え、じゃあ今の言葉は」
「ああ。蓮夜の反応を見てどっちか確かめたかったから言った。蓮夜、父親は亡くなってないな? 離婚だよな?」
「はい。俺は父親には、会ったこともないです」
「なら、父親に会うべきだ。父親に会っても俺と暮らしたい気持ちが変わらなかったら、その時、もう一度ちゃんと、俺に『父親になって』って言ってくれ。蓮夜がそうしたらきっと、俺は断らないから」
涙が溢れる。紫月さんは俺を泣かせる天才だ。その言葉だけで、十分だ。我儘を言ってしまった俺に対する対応として、あまりに十分すぎる。
「絶対、絶対断らないでくださいよ。約束ですからね」
紫月さんの背中に爪を立てて、甘ったれたガキみたいに我儘を言い放つ。紫月さんだけは、絶対に手放したくない。
「ああ、断らないよ」
その言葉を嘘か本当か判断する術が、俺にはなかった。紫月さんは、まだ完全に俺を弟の代わりだと思ってないわけじゃない。そう思わないように努力している段階だ。そんな紫月さんが、絶対に断らない保証なんてない。それでも俺は、この言葉を信じたい。嘘じゃないと思いたい。紫月さんがそっと、俺の腰に手を回す。力を込められなかったのは、約束を守れる自信がないからだろうか。それでも俺は、死ぬまで、紫月さんと一緒にいたい。紫月さんと一緒に笑っていられる時間が、俺にとって一番、穏やかな時間で、俺にとって一番、楽しいと思える時間だから。



