「蓮夜、湯河原って行ったことあるか?」
「湯河原って……箱根の近くでしたっけ?」
「ああ。そこに『源泉掛け流しの温泉がある部屋』が売りの旅館があるんだよ」
腕を組んで得意げに紫月さんは言う。
「そうなんですか?」
「ああ。早朝に入ったら、すごく気持ちいいと思うぞ」
その言葉を聞いただけで、とてもワクワクした。
「行ってみたいです、湯河原」
「よし、なら決まりだな」
首を大きく動かして、紫月さんは頷いた。
「泊まりの前に、一旦家に服取りに行きますか?」
「いや、服は買う。家に行ったら旅行に行く気が失せるかもしれないからな」
「それなら大丈夫です。紫月さんが旅行に行かないって言い出したら、俺が、無理やり紫月さんを外に連れ出すので」
俺の言葉を聞いて、紫月さんは目を見張る。
「ハハッ、珍しいな。いつも受け身でネガティヴのお前がそんなことを言うなんて」
「……今の俺には、紫月さんしかいないので。紫月さんが俺を見てくれるって言うなら、何でもします」
俺は紫月さんがそばにいなかったら、まともに生きられる気がしない。家に帰っても姉に暴力を振るわれるだけだし、母さんにはまだまだ虐待の内容を話せそうにないから。
紫月さんが目を伏せる。紫月さんは俺の頭を撫でようとして手を上に上げたけれど、頭に触れる直前で、手を離した。
「ごめん、そうだよな。そしたらやっぱり家に帰ろう、蓮夜。安心しろよ、絶対に今日中に支度を終わらせて、明日の朝には二人で家を出るから」
自分に撫でる資格はないとでも思っているのだろうか。
「大丈夫です、撫でてください」
「……いや、またにしておく。質問の答えを察することができなかった俺に、撫でる資格なんてないから。ごめんな、蓮はずっと、俺しかいないって言っていたのに」
そう言って、紫月さんは作り笑いをした。
「いえ。俺、嬉しいです。紫月さんが、やっと俺自身を見てくれるようになったから」
「……これからもお前自身を見られるように、努力するよ」
その言葉を聞いて、まるで、自分の世界の色が一気に明るくなったかのような高揚感を感じた。
どうかこのまま、俺の世界が一生明るいままであって欲しい。紫月さんが、旅行が終わっても俺のことを弟さんの代わりとして見ないでいてくれるといいな。でも、あくまで一週間仕事が休みだから、一週間俺と旅行に行って、俺のために時間を使うって言ってくれているだけだろうし、旅行が終わったらまた、弟さんの代わりとして見られるのかな。そうなったら俺はどうしたらいいのだろう。
……俺の馬鹿。紫月さんはちゃんと努力してくれている。それなのに、旅行が終わったらまた弟さんの代わりとして見られるかもなんて考えたらダメだ。ちゃんと紫月さんを信じないと。
「さ、家に帰ろう、蓮夜」
紫月さんがちゃんと俺の名前を呼んでいった。
「はい」
不安になるな。大丈夫だ、きっと。そう自分に言い聞かせながら、俺は頷いた。



