紫月さんに手を引かれて、駐車場に向かう。
紫月さんは全然、手を離そうとしない。もう力は込められていないけれど、離す気配は本当にない。なんでこんなに手を握ってくれているのだろう。


「紫月さん」
 手を見ながら、紫月さんを呼ぶ。
「ごめん、嫌だったよな」
 紫月さんはすぐさま手を離した。

「嫌ではなかったです。でも、何で離さないのかなとは思っていました」

「俺、お前がいなくなった時、絶望したんだ。お前が俺から離れるのが、すごく怖かった。それで握っちゃったんだと思う」

「怖かったのは、弟さんのことがあったからですか」
「ああ。俺、昔から周りが見えてないんだよ。弟が植物状態になった時だってさ、自分の家はいつか壊れるってわかっていたのに、サッカーの試合に行ってたし」

「でも、大事な試合だったんじゃないですか?」

 紫月さんが目を伏せる。

「全国大会の決勝だった。勝てば、スポーツ推薦で、名門大学に学費免除で入れるはずだった」
 それは予想外に、紫月さんの人生がかかっていた試合だった。

「学費免除なら両親も俺が大学行くって言っても反対しないと思って、それでつい、試合に向かっちまった」

「反対されてたんですか」

「ああ。『高校を卒業したらすぐに働け、でないと追い出す』って、両親から口酸っぱく言われていた。それでも自分で部費払ってまで部活をしていたから、高校を卒業したら、大学でもまた、サッカーをやりたいと思っていた。あいつは俺のそんな想いを察していたんだろうな。だから俺に、『僕のことは気にしないで、部活に行って』って言ったんだ。試合会場が都外だったから、弟を連れて行くことができなくてさ」

 そういうことだったのか。

「別に紫月さんは、周りが見えてないわけじゃないと思います。他の人よりほんの少し、素直すぎるだけです」
 良いでも悪い意味でも紫月さんは素直すぎる。きっと、俺に弟と言ったり、俺と暮らすかどうかを迷ったりしたのだって、その性格があったからこそやったことなのだろう。

「素直すぎか。確かにそうかもな」

「俺は紫月さんが羨ましいです、俺はもう全然、素直になんてなれてないので」
「絵のことか?」
「はい」
 頬をかいて作り笑いをする。

 絵を描きたいという想いは、常に頭の中にある。でもそれをする権利が、俺にはない。

「なあ蓮夜、別に今すぐ絵を描くようになれとは言わないが、別に俺の前では、絵を描いてもいいんじゃないか」

 紫月さんが俺の頭の禿げたところを触る。

「紫月さん、俺はもう絵は描かないです」

「姉の前では描かなくていい。でも、俺のそばにいる時は絵を描いたって誰にも怒られることはないんだから、別に描いたっていいんじゃないか」
 確かにそうだよな。
「少し、考えます」
 作り笑いをして、俺は言った。紫月さんは口をヘの字に曲げて納得していないような顔をした。俺がちゃんと頷かなかったから、そんな顔をしているのと思う。

 頷かなかった俺が悪いわけでも、紫月さんがそんな提案をしたのが悪いわけでもない。ただ俺の環境は、絵を描くにはあまりに悪すぎる。だって、緒に暮らしているのだから姉ちゃんは俺があの事故から絵を描いていないのを知っているはずなのに、スケッチをカッターで切ってしまったのだから。