「……弟さんに会いに行きましょう、紫月さん」
紫月さんの真ん前に行って、言う。
小さくなっている紫月さんに目線を合わせると、 紫月さんは不安そうに首を傾げた。
「え?」
紫月さんの涙を拭って、俺は作り笑いをした。
「俺じゃあ紫月さんにとって何が最善なのかわからないので、弟さんと相談して、決めてきてください。俺は病室の外で、待ってますから」
本当はこんなこと、絶対に言いたくなかった。だって弟さんのところに行ったら、絶対俺のとこに帰ってこない気しかしないから。
それでもこのままトイレにいたところで結論なんて出そうもないし、俺も紫月さんも一番納得するには、それが一番だと思った。病室の前で待っているのにいつまで経っても紫月さんが俺のところに来なかったら、きっと、すっぱり諦めが付く。
紫月さんが目を見開いて、信じられないというような顔をする。
「お前、それで俺が一時間経っても病室の外にこなかったら、どうするつもりなんだよ」
「い、家に、帰ります」
そう言っただけで、手足が震えてしまった。
涙を拭って、紫月さんは立ち上がる。紫月さんが俺の腕を掴んだ。俺の腕を掴んだままの状態で、紫月さんはトイレを出てどこかへ向かう。
「紫月さん? どこに行くんですか?」
「ビジネスホテル」
「え?」
ホテル? なんでそんなことに行くんだ?
「俺は弟のことが世界中の誰よりも大事だ。でも、今俺が優先した方がいいのは弟じゃなくて、お前だろ。俺の家は弟のものがありすぎて、あそこにいると、弟のことばかり考えちまう。お前のことも、弟の代わりだと思っちまうし。それなら場所を変えるしかないだろ」
「え、それって」
まさか、環境を無理矢理変えて、俺のことを弟の代わりだと思わないようにしようとしているのか?
「ビジネスホテルで一週間、お前と暮らす。その間に俺がお前のことを弟だって言ったら、俺とはもう会わなくていい」
真っ直ぐに俺の目を見つめて、紫月さんは言う。
「そんな約束して、いいんですか」
家を出ていいと、会わなくていいではだいぶ話が違うだろう。それに、環境を変えたって、俺のことを弟の代わりだと思ってしまうことはあるだろう。それなのにそんな約束をしてしまって大丈夫なのか?
「正直、守れる自信はない。でも今その約束をしなかったら、俺は多分、一生後悔する」
その言葉だけで、十分だった。その言葉だけで十分、俺が紫月さんとホテルに行く理由になった。
「遅いです。お、俺は、紫月さんがそうやって、弟さんのことじゃなくて、俺のことだけを考えて行動してくれるのを、ずっと……っ」
ずっと待ってたと言い切る前に、堪えきれず、涙が溢れた。
「ごめん、そうだよな。ずっと待ってたよな」
俺の背中を撫でて、紫月さんは笑う。そうっと、大事なものを扱うかのように、背中を優しく触られる。触り方が丁寧すぎて、余計涙が溢れてしまった。
もしも紫月さんが詐欺師だったら、俺は紫月さんにとって都合のいいカモのようなものだ。それでも今は夢を見たい。もう一度だけ、紫月さんのことを信じたい。



