「アハハ、大丈夫? 床、綺麗にしておきなさいよ」
そう言うと、姉ちゃんは足音を立てて部屋を去っていった。
……大丈夫って、こんな状況にしたのは誰だよ。そう言って姉ちゃんを睨みつけてやりたがったが、口の違和感が拭いきれなくて、声が出なかった。 水が吐き出しても、吐き出しても口から溢れ出す。
耳と口の違和感がなくなると、俺は壁によりかかって、ため息を吐いた。
洗面所の鏡に写った自分の姿が目に入る。
目尻が吊り上がった瞳が涙を流しすぎなせいで、真っ赤に充血していた。 寝不足のせいで、瞳の真下に真っ黒いくまができている。 白髪が全体の三分の一くらいの割合であって、ストレスのせいでとても高校生とは思えないほどに痛んだ髪は所々が剥げていた。
……っ。
カッターで刺されて血まみれになった腕が痛みを訴えた。
本当に最悪だな、俺の人生。 俺はあまりに衰弱した自分の姿を見て、自虐するみたいに笑った。
蛇口の水を流して腕を洗っていると、傷口がしみた。
「いった」
俺は傷口を粗方流し終わると、水を止めた。
洗面所の下にある小さい引き出しの一段目を開けて、そこからタオルを取り、それで顔を丁寧に吹いて、血まみれの腕を雑に拭う。
……腕に傷跡残りそうだな。……やだなぁ。
俺は姉ちゃんに逆らうことができない。
姉ちゃんは俺を庇ったせいで腕を麻痺してダンサーになれなくなった。それがわかっているのに、姉ちゃんに逆らうことなんてできない。
姉ちゃんは左腕を麻痺しているし、女だから、弟の俺の方が力は強い。俺が本気を出せば腕なんて簡単に振りほどけるし、暴力をしてきたら、倍くらいの力でやり返すことだってできる。でも俺はそうする気になれない。そうしようなんてとても思えない。
姉ちゃんを変えてしまったのは俺だから。
俺は小さい頃から絵を描くのが好きで、画家を志していた。
小さい頃の俺は他人に引かれるくらい絵を描くのが好きで、絵を描くためならどこにだって行くし、絵を描くためなら何でもするような奴だった。
俺がそうなったのは、姉に言われたある言葉と、同級生からの軽いいじめがきっかけだった。
仕事が夜勤のせいで、昼間は母さんが寝ているため、放課後は姉と常に一緒にいた俺を、同級生はシスコン呼ばわりしてからかった。
暴力を受けることはなかったけど、あいつってシスコンで気持ち悪いよなーとか言われたり、机にシスコン野郎、学校来んなって落書きをされたりした。
絵を描いていると、そういうのを忘れられた。でもその絵が、あの事故を招いた。俺はあの事故が起きてから間もない頃に夢を諦めた。姉の夢を壊した俺に、画家を目指す資格なんてないと思ったから。
事故が起こる前、俺は推薦で美術系の中学校に入学することが決まっていた。
推薦は、俺が美術の大会で賞をとったのを中学校の先生達が評価してくれて、貰えたものだった。でも俺は、事故がきっかけで、推薦を蹴って、普通科の中学校に入学した。そこから俺は四年間絵を描いていない。俺は虐待が始まった日に誓った、もう二度と絵は描かないと。



