「ねっ、姉ちゃん。いっ!!!」
 右腕の肘辺りをカッターで刺された。制服を着ていたから直接ではなくワイシャツ越しだったけど、それでもめちゃくちゃ痛い。

「ねぇ疫病神、あんた、お母さんにトイレの掃除押し付けたでしょ? 何様のつもりなのよ?」
「い、あぁぁっ!!」
 刺さっているカッターを手首まで引きずられる。痛みに耐えられなくて、悲鳴が口から漏れた。
「うるさいわよ」
 姉ちゃんは俺の腕からカッターを抜くと、刃をしまったカッターをポケットに入れた。頬を勢いよく叩かれる。

 鈍い痛み。頬がじんじんする。
 俺は叩かれた頬を左手で触った。

「な、何様のつもりって、別に俺が母さんにしてっていったんじゃなくて、母さんが進んでしてくれたんだよ?」
「それくらい言われなくても想像つくわよ。私はなんでお母さんがやろうとする前に自分で片づけなかったのって言っているのよ!」

「ぐっ!?」
 腹を膝で蹴られる。
「ガハっ、グハっ!」
 一発、二発、三発と三回続けて鳩尾を膝蹴りされ、気持ち悪くなって、吐き気が押し寄せてきた。
「はぁっ、はぁ……」
 腹を抱えてうずくまる。

「立ちなさい」
「いった!」
 黒髪と白髪が混じった髪を片手で勢いよく引っ張られ、立つように促される。俺が慌てて立ち上がっても、姉ちゃんは髪の毛から手を離さなかった。次の瞬間、髪の毛を勢いよく引っ張られた。髪の毛が何十本も抜けて、床に落ちる。俺は何も言わず、姉ちゃんを睨みつけた。

「疫病神の分際で、睨んでくんじゃないわよ」
 洗面器に顔を押し付けられて、水を滝のような強さでかけられた。

 肌にあたって弾けた水が両目を、口の中を、鼻の穴の中を、 耳の穴の中を弄くり回す。水の圧に押しつぶされて、目を瞑りたいのに瞑れない。叫びたいのに、喉仏が潰れて声が出ない。息をしたいのに水で鼻と口を塞がれて、呼吸困難に陥る。ゴホゴホという海で溺れたような音と水の音だけが耳に響いて、それ以外にはなんの音も聞こえない。

「ゴボッ、ゔっ!!」

どうにか顔を上げようとしたら、首を掴まれて、ぐっと、締め付けられた。

身体が震える。底知れない恐怖が押し寄せてきて、俺は反射的に顔を上げようとするのをやめた。

姉ちゃんの手が首から離れた。

水圧が一気に強くなった。髪の毛を掴まれて、洗面器のさらに奥に、顔を押し付けられる。

 水圧が強いせいで、肌に水が当たってるだけなのに、何十個もの氷を顔に投げられているような気がした。

 目が痛い。水に触れすぎた。

 なんで。俺は弟なのに。それなのにどうして、こんな目に合っているんだ。

 辛すぎて目頭が熱くなる。それなのに涙が出てる実感がいつまでたっても湧いてこない。涙が出た瞬間に流されているからそうなっているのか、目の感覚がないからそうなっているのかどうかも、判断できない。

 今すぐにでも逃げなきゃ窒息で死ぬ可能性だってあるのに、恐怖のせいか足が一ミリも動かない。足だけじゃなくて、腕も指も全然動かせない。
これじゃあまるで、壊されるのを受け入れてる人形みたいだ。いや、さながら壊れたロボットか?
自分をひにくってみても、身体が動く気配はない。
「はい、おしまい」
 三十秒くらい経ったところで、姉ちゃんは水を止めた。
「はぁはぁ」という細い息と一緒に水が口から溢れ出す。
 耳に耐えられない違和感があって穴を押してみると、水と耳垢がごっそり出てきた。……汚っ、最悪。