コンコン。

「蓮夜?」

 母さんの声だ。
 俺は何も言わず、ドアを開けた。

「お帰りなさい、蓮夜。大丈夫?」
 水色のインナーを着た母さんが、首を傾げて聞いてくる。母さんは垂れ目で、睫毛が長くて、柔らかそうな雰囲気をしている。俺はそんな母さんを見ていると、心が落ち着く気がした。

「……うん。さっきは気分悪かったけど、少しマシになった」
「そ。よかった。上履きはビニール袋に入れて洗面所に持ってて、洗っておいたわよ」
「えっ。母さん、虫苦手なんじゃなかったっけ」
「そうだけど、私より、蓮夜の方が苦手でしょ?」
 母さんが目尻を下げて笑う。
「……ありがとう。母さんが片付けたの、姉ちゃんにバレなかった?」
「バレてないわよ。私がトイレを片付けてた時、飾音は部屋で彼氏と電話で話してたから」
「そっか」
 バレていなくてよかった。


「夜ご飯食べるでしょ? 用意してあるから、ダイニングにおいで」
 俺の頭を撫でて、母さんは笑う。
「……うん」
 俺は小さな声で頷いた。

「ん? 何か匂うわね。蓮夜、部屋入ってもいい?」
 母さんが鼻をつまんで言う。

 マズい。
 吐瀉物のせいで部屋が臭くなっているのがバレてしまう!

「い、今はダメ。汚いから。部屋片付けてから、ダイニングいくね」
「そ。わかったわ」
 そう言うと、母さんは笑って、ダイニングの方に行った。

「はぁ」
 思わずため息を吐いた。
 ……よかった。
 吐いたこと、バレなかった。
 バレなくて本当に良かった。母さんに心配をかけると、マズいことになるから。

 姉ちゃんは、俺が母さんと仲が良いのをよく思っていない。

 母さんはあの事故があってから、俺のことをすごく気にかけてくれるようになった。
 事故が起きた当時、俺は姉ちゃんが怪我したのは自分のせいだと思っていて、執拗に自分のことを責め立てて、毎日のように泣いたり、自分を傷つけたりしていた。その考え方は、十六歳になった今でも抜けてなくて、俺は今でも時々自虐行為に走ることがある。

 母さんは事故が起きた当時から、そんな俺をすごく気にかけてくれて、姉ちゃんの身体より俺の心のケアを優先してくれていた。
 本当は子供に優先順位なんてつけちゃいけないのに、母さんは無意識のうちにそれをつけていて、姉ちゃんより俺の世話を優先していた。その状況は姉ちゃんからすれば、とても好ましくないもので。いつしか姉ちゃんは俺が母さんに優しくされているのを見るたびに、酷い虐待をしてくるようになった。俺が母さんに頼ることができないのは、それが原因だ。