終電はまだ間に合う。けれど、家に帰っても冷蔵庫の中は空だ。インスタント食品やレトルト食品の在庫も尽きている。
いつもなら近所のコンビニで食料を調達するところだが、疲労困憊の足は最寄り駅から三つ先のホームに降り立つ。ふらつく足取りで外灯の下を歩き、見慣れたアパートの一部屋の前で立ち止まる。
チャイムを押して用件を伝えると、どかどかと足音が迫ってきて、すぐに玄関のドアが開く。
「……姉さん。こんな時間にどうしたの」
音夜は残業をしていたのか、いつもは下ろしている前髪をバックで固めていた。黒縁眼鏡の奥にある瞳は、困惑したように揺らいでいる。
足元を確認すると、玄関にきれいに置かれている靴は一足だけ。来客はないようだが、夜遅くの訪問は迷惑だったかもしれない。
「……もしかして、お邪魔でしたか」
「なんで敬語なんだよ」
「頼み事をするなら、言葉遣いは丁寧なほうがいいかと……」
いくら姉弟でも、こちらはお願いにあがった身。お互い成人しているからこそ、貴重なプライベートの時間を割いてもらうのに、それなりの誠意は見せておきたい。
(面倒見のいい音夜のことだから、追い返されたりはしないと思うけれど……)
軽く緊張しつつ、無言になった弟の返答をしばし待つ。
「別に……邪魔とか思わないから。それより、頼み事って?」
何かに諦めたような問いかけに、香凜はしずしずと頭を下げた。薄汚れたヒールのつま先を見て、そろそろ磨かないといけないなと思う。
「ご飯を恵んでください」
「……わかったから、早く上がって」
促されるままに家に上がると、整理整頓された部屋に通された。実家のときも几帳面な性格と思っていたが、一人暮らしでもそこは変わらないらしい。
自分の部屋と比べると、精神的ダメージが増えるだけになるので、よそはよそ、と割り切っておく。
一人用の低いテーブルの前に座り、冷蔵庫の中を検めている弟に振り返る。
「私が言うのもなんだけど、彼女が来たりしないの?」
「彼女は家にあげない。それに、今はフリーだし。人間関係も疲れたから、しばらくは独り身でいい」
「……そっか。疲れるよね……社会人は」
しみじみと同意すると、哀れみの視線が突き刺さる。同じ土俵で戦っている同志だと勝手に思い込んでいたが、実は違うのかもしれない。勤めている会社が違うなら、それも当たり前かと思い直す。
音夜は冷蔵庫から取り出したビールの缶を机に置き、ぼそりと問いかける。
「明日は休み?」
「……うん。休みをもぎ取ってきた」
休みは与えられるものではない。もぎ取るものだ。
新入社員時代は言いようにこき使われてきたが、ベテランの今は過労死という言葉が脳内でリフレインする。体力も落ちてきた三十代、休日出勤なんてしてたまるか、という強い意志が必要になるのだ。
音夜はそっか、と小さく相づちを打つと、プルタブを引いてあおるように飲む。
「俺も土曜はオフだし、買い出しに付き合ってもらうから」
「……私は荷物持ちなのね」
「姉さんの好きな食材を買いに行こう。美味しいもの食べて、いっぱい寝て、そんで来週からまた頑張ればいい」
音夜は相変わらず仏頂面のままで、無言で見つめてくる。
まさかの優しさの総攻撃に言葉を失い、涙腺がゆるみかけた。こみ上げる気持ちをやり過ごし、両手で顔を覆ってうつむく。
「あなたは神か……」
「それ、弟に言う台詞じゃないよ」
「なかなか、徳を積んでいらっしゃる」
「その表現もちょっと……」
むむう。的確な表現が見当たらない。
だがしかし、この感謝をどうにかして伝えたい。その一心で香凜は口を開く。
「私、彼氏はいらない。音夜がいれば、充分幸せだから」
「いや、彼氏はちゃんと作って。いくら俺でも、老後までは面倒みれないよ」
冷静な突っ込みにうなだれていると、電子レンジから電子音が聞こえてくる。音夜が席を外したのを横目で見送り、ちびちびとビールを飲む。
コトン、という音に意識を戻すと、机に複数の小皿が並んでいるところだった。ご飯もよそってある。
「残り物だけど、まあ、食べて」
「……いただきます」
箸を手渡しで受け取り、薄茶色に染められた卵を最初に口に運ぶ。冷蔵庫で冷やされていたからか、ひんやりとしているが、ほどよく味が染みこんでいる。隣にあるきゅうりの炒め物も気になる。
「味はどう?」
「この煮卵、お店の味がする。黄みもとろとろだし、お酒にも合う!」
「作り置きだけどね。満足してもらえたならよかった」
料理の腕は信頼していたが、ここまでとは。これまでに食べさせてもらったものは、いつも作る料理は自分好みの品目だったから、正直びっくりした。
見た目は素朴なのに、しっかり味付けされているから、ご飯も進む。一週間前も食べたばかりなのに、手料理に飢えていた身にとっては聖水のように浄化されていく心地になる。
(……音夜。あなたは今、何から逃げているの……?)
まどろむ夢の中、問いかけても答えは返ってこない。瞼が重くなり、意識が水底に沈んでいく。目を閉じる前、照れたように口元をほころばせた顔が脳裏をよぎった。
いつもなら近所のコンビニで食料を調達するところだが、疲労困憊の足は最寄り駅から三つ先のホームに降り立つ。ふらつく足取りで外灯の下を歩き、見慣れたアパートの一部屋の前で立ち止まる。
チャイムを押して用件を伝えると、どかどかと足音が迫ってきて、すぐに玄関のドアが開く。
「……姉さん。こんな時間にどうしたの」
音夜は残業をしていたのか、いつもは下ろしている前髪をバックで固めていた。黒縁眼鏡の奥にある瞳は、困惑したように揺らいでいる。
足元を確認すると、玄関にきれいに置かれている靴は一足だけ。来客はないようだが、夜遅くの訪問は迷惑だったかもしれない。
「……もしかして、お邪魔でしたか」
「なんで敬語なんだよ」
「頼み事をするなら、言葉遣いは丁寧なほうがいいかと……」
いくら姉弟でも、こちらはお願いにあがった身。お互い成人しているからこそ、貴重なプライベートの時間を割いてもらうのに、それなりの誠意は見せておきたい。
(面倒見のいい音夜のことだから、追い返されたりはしないと思うけれど……)
軽く緊張しつつ、無言になった弟の返答をしばし待つ。
「別に……邪魔とか思わないから。それより、頼み事って?」
何かに諦めたような問いかけに、香凜はしずしずと頭を下げた。薄汚れたヒールのつま先を見て、そろそろ磨かないといけないなと思う。
「ご飯を恵んでください」
「……わかったから、早く上がって」
促されるままに家に上がると、整理整頓された部屋に通された。実家のときも几帳面な性格と思っていたが、一人暮らしでもそこは変わらないらしい。
自分の部屋と比べると、精神的ダメージが増えるだけになるので、よそはよそ、と割り切っておく。
一人用の低いテーブルの前に座り、冷蔵庫の中を検めている弟に振り返る。
「私が言うのもなんだけど、彼女が来たりしないの?」
「彼女は家にあげない。それに、今はフリーだし。人間関係も疲れたから、しばらくは独り身でいい」
「……そっか。疲れるよね……社会人は」
しみじみと同意すると、哀れみの視線が突き刺さる。同じ土俵で戦っている同志だと勝手に思い込んでいたが、実は違うのかもしれない。勤めている会社が違うなら、それも当たり前かと思い直す。
音夜は冷蔵庫から取り出したビールの缶を机に置き、ぼそりと問いかける。
「明日は休み?」
「……うん。休みをもぎ取ってきた」
休みは与えられるものではない。もぎ取るものだ。
新入社員時代は言いようにこき使われてきたが、ベテランの今は過労死という言葉が脳内でリフレインする。体力も落ちてきた三十代、休日出勤なんてしてたまるか、という強い意志が必要になるのだ。
音夜はそっか、と小さく相づちを打つと、プルタブを引いてあおるように飲む。
「俺も土曜はオフだし、買い出しに付き合ってもらうから」
「……私は荷物持ちなのね」
「姉さんの好きな食材を買いに行こう。美味しいもの食べて、いっぱい寝て、そんで来週からまた頑張ればいい」
音夜は相変わらず仏頂面のままで、無言で見つめてくる。
まさかの優しさの総攻撃に言葉を失い、涙腺がゆるみかけた。こみ上げる気持ちをやり過ごし、両手で顔を覆ってうつむく。
「あなたは神か……」
「それ、弟に言う台詞じゃないよ」
「なかなか、徳を積んでいらっしゃる」
「その表現もちょっと……」
むむう。的確な表現が見当たらない。
だがしかし、この感謝をどうにかして伝えたい。その一心で香凜は口を開く。
「私、彼氏はいらない。音夜がいれば、充分幸せだから」
「いや、彼氏はちゃんと作って。いくら俺でも、老後までは面倒みれないよ」
冷静な突っ込みにうなだれていると、電子レンジから電子音が聞こえてくる。音夜が席を外したのを横目で見送り、ちびちびとビールを飲む。
コトン、という音に意識を戻すと、机に複数の小皿が並んでいるところだった。ご飯もよそってある。
「残り物だけど、まあ、食べて」
「……いただきます」
箸を手渡しで受け取り、薄茶色に染められた卵を最初に口に運ぶ。冷蔵庫で冷やされていたからか、ひんやりとしているが、ほどよく味が染みこんでいる。隣にあるきゅうりの炒め物も気になる。
「味はどう?」
「この煮卵、お店の味がする。黄みもとろとろだし、お酒にも合う!」
「作り置きだけどね。満足してもらえたならよかった」
料理の腕は信頼していたが、ここまでとは。これまでに食べさせてもらったものは、いつも作る料理は自分好みの品目だったから、正直びっくりした。
見た目は素朴なのに、しっかり味付けされているから、ご飯も進む。一週間前も食べたばかりなのに、手料理に飢えていた身にとっては聖水のように浄化されていく心地になる。
(……音夜。あなたは今、何から逃げているの……?)
まどろむ夢の中、問いかけても答えは返ってこない。瞼が重くなり、意識が水底に沈んでいく。目を閉じる前、照れたように口元をほころばせた顔が脳裏をよぎった。



