乙女ゲームに転生した華族令嬢は没落を回避し、サポートキャラを攻略したい!

 考え事に集中していたせいで、足が川縁にそれていたらしい。
 何歩か後退し、ホッと息をつく。

「危うく水に足を取られるところでした。お助けいただき、ありがとうございます」
「礼には及びません。ちょうどスケッチをしていて、あなたの姿が目に入ったものですから」

 ゲームの画面越しに見た微笑みを見て、鼓動が早くなる。

(くっ、生で見ると破壊力が違う……!)

 ゲーム画面越しに見ていたあの笑顔が、目の前にある。
 キラキラのエフェクトが脳内補完されて、もはや直視できない。

「何か悩み事ですか?」
「え? ああ……ええと、そんな感じです……」

 しどろもどろになりながら答えると、詠介は労るように見つめる。
 だが悩みの内容に言及をすることはなく、くるりと背を向け、何かを取って戻ってくる。その手元には見覚えのある帳面があった。

「気晴らしになるかは分かりませんが、よければご覧になりますか?」
「……ぜひ!」
「どうぞ」

 帳面を開くと、横からの突風でぱらぱらとページがめくる音がする。とっさに手を添えて耐えていると、ほどなくして風は勢いをなくして、静かに過ぎ去っていった。
 ページを前に戻して目線を下げる。表紙はこの前と同じものだったが、どうやら中身は違うらしい。
 前回よりも緻密に描き込まれていたのは季節折々の草木だった。色は白黒で描かれているのに、記憶の底から明るい色彩を思い出させる。
 これに赤と朱色の筆で色をつければ、赤く色づいた紅葉の完成だろう。

「風景画がお好きなんですか?」

 質問すると、詠介はばつが悪いように頬をかいた。

「実は、人物画は苦手でして……。もっぱら、花や木々を描くことが多いですね」
「……なるほど。でも、どの絵も優しい雰囲気で、私は好きです」
「そう言われると、ちょっと照れますね」

 詠介は流れゆく川に視線を移したかと思えば、まだ明るい露草色の空を見上げた。

「日が暮れるまで時間がありますが、やがて日も沈むでしょう。帰りが遅いと、心配されるのでは?」
「あ……そうですね」

 近づく別れの気配に、絃乃は帳面をおずおずと差し出した。それを受け取り、詠介は柔らかく微笑む。

(やっと会えたのに、彼を引き留める言葉が思いつかない。どうしよう……)