愛紗は天帝が支配する仙界に暮す猫族(まおぞく)の首領の娘――平たく言うならば、姫である。齢にして八千歳。まだまだうら若き乙女であった。
 
 姫とは言うが、仙界全体を見れば猫族の地位は高いほうではない。よくて中の下。青丘(せいきゅう)を治める狐族(こぞく)などと比べるのもおこがましい。
 
 愛紗は挨拶のため、天帝(てんてい)の前で膝をつく。慣れたものだ。この行為もすでに百度を超えている。天帝の汚れなき白き衣には煌びやかな黄金の装飾が輝く。頭の上の冕冠(べんかん)の垂れ下がる十二本の玉飾りがゆらゆらと揺れる様(さま)を目で追った。
 
 もう少し側にいたら、飾り紐に飛びついていたところだ。慌てて頭を振り、意識を別のところに持っていく。
 
「愛紗、残念だったな」
「……はい。ご期待に応えられず申し訳ございません」
「これで大仙(たいせん)試験もこれで九十九回だ。ここまで失敗続きの者を朕(ちん)は見たことがない」
 
 天帝の吐き出す息に身体が縮こまる。そう、愛紗も九十九回も大仙試験を失敗している。
 
「そなたの霊力(れいりょく)は大仙の域に達している。あとは歴劫(りゃくごう)修行で八の苦を経験するのみ。なぜ九十九回人間に転生しているのにも拘わらず老いの苦しか経験できないのか……」
 
 天帝は大きなため息を吐き出した。
 
 愛紗は大仙試験の過半を終え、残りは人間に転生し八つの苦を経験するだけだった。「歴劫修行」と呼ばれるこれは、誰でも成功するいわば、おまけである。
 
 人間は短い一生の中で、八苦をのうちいくつかの苦を経験して死に至る。九十九回繰り返せば、たった八つくらい簡単に終えられるのだ。
 
 大仙試験を受けると決めたときには思いもしなかったのだ。自身がその修行に九十九回挑戦してまだ七つ残していることに。
 
 それには海よりも深い訳がある。
 
「どういうわけか、転生した先の地仙に愛されてしまうようでして、九十九回の人生、苦を味わうこともなく楽しく長生きしてしまいました……」
 
 愛紗はうなだれるしかない。九十九回の転生人生。人間として生きているあいだは仙界の記憶は持たない。無垢な人間と変わらないのだ。それゆえ、自身に起こる幸運にただ手を叩いて喜ぶだけだった。
 
 しかし、仙界に戻ってくれば全ての記憶がよみがえるのだ。
 
 九十九回の人生を思い出しても病気知らずで、愛する人と結ばれ、人を恨むこともなかった。『老いの苦しみ』は経験したことになっているが、実際苦しかったかと聞かれると九十九回中全ての記憶の中で大して苦しい思いはしていないのだ。
 
 人生楽しく生きることはいいこと。の、はずなのだが、これは試験。八つの苦を経験するという大切な修行の一環である。
 
「他に愛されるそなたゆえの悩みだな。……さて、もう一度、転生しても同じ事を繰り返すだろう」
 
 天帝の言葉は重い。歴劫修行を九十九回も受けた仙など過去に一人もいないだろう。それでも今まで修行を受けることに頷いてくれた。
 
 このままでは大仙の道がたたれてしまう。猫族は仙界の中での地位は非常に低い。それも猫族はのんびりしている性格の者が多く、修行を好まないのだ。過去に大仙までいった者はいない。その偉業を首領の娘である愛紗はなそうとしていた。
 
「もう一度だけっ! どうか、もう一度だけ挑戦させてください!」
 
 愛紗の叫び声が宮殿に響く。白を基調とした宮殿は金の装飾が施され、天帝のまとう衣と対のようであった。
 
「愛紗よ、このままでは百日後、同じ会話をすることになるだろう。そこで朕は考えた。歴劫修行の代わりを用意したといえば、受けるか?」