聖女クレアはラフォンヌ男爵家の長女として生を受けたが、母を亡くしているうえに弟妹を養うために家計は厳しく、彼女はずっと庶民と同じ生活をしていたという。舞踏会やお茶会にも出席したことがなく、聖女として国から保護を受けるまで、彼女自ら働きに出ていたらしい。
 ちらりと背後を見やると、国王と王妃から無言の圧力を感じた。
 ユリシーズは心を無にして、クレアに向かって片手を差し出す。彼女は優雅に微笑み、細い手をユリシーズの手の上に載せる。
 そして螺旋階段からゆっくりと下りるのをエスコートし、ホールに並び立つ。そして現婚約者のもとへ足を向けると、ざっと人波が左右に割れる。
 難なく婚約者のもとにたどり着き、ユリシーズはクレアから手を離した。クレアはしおらしく後ろで控えることにしたらしい。

(……いつもの髪留めがない)

 灰銀の髪にはブルーサファイアの髪留めがなかった。お揃いのネックレスもない。あるのは真珠のネックレスだけ。
 ユリシーズがプレゼントした宝飾品を身に付けていないことに少なからずショックを受ける。もう何の未練もないのだと、暗に言われているようだった。
 瑠璃色の瞳は覚悟を決めたように、静かに自分の姿を映し出していた。今から何を言われるのか、聡い彼女はもうわかっているのだろう。
 ユリシーズは短く息を吐き出し、周りにも聞こえるように口を開く。

「――フィリス・ベルラック公爵令嬢、君との婚約を……」
「はい」
「婚約破棄など、したくない!」
「…………え?」

 想像と真逆のことを言われたからだろう。フィリスがぽかんと目を丸くしている。周囲もどう反応していいか、困惑した雰囲気になっていた。
 けれど、ユリシーズは前言撤回するつもりはなかった。

 そもそもの事の発端は、半年前に遡る。