イヴァン。見慣れない衣服で薄々予想はしていたものの、リアは密かに息を呑む。恐らくバザロフと同じ、キーシン方面の名前だろう。

 ──もしかして大公国との戦に負けて、こっちに逃げてきたっていう人たち……?

 エドウィンから聞いた話では、確かそのような経緯だったと記憶している。大将である王子が深傷を負ったことで、キーシンの民が矛を収めて撤退したのだ。それを追う形でサディアス皇太子がエルヴァスティを訪問し、王子の捕縛を要請しに来たというのがここ最近の流れである。
 それが何故、愛し子を狙う大罪人などに手を貸すことになったのだろう。戦の後ろ盾として選ぶべきは、もっと身元のしっかりとした富豪や商会ではなかろうか。それか帝国と同盟関係にない、中立を維持している国とか。
 戦争に関する乏しい知識を引っ張り出し、うんうんと唸ってみたが答えは見つからず。リアはさりげなくイヴァンを風除けにしながら、仕方なしに歩を進めた。

「ねぇイヴァン。私を攫う目的ぐらい聞かせてちょうだい。知る権利はあるでしょ?」
「……詳しいことは俺も知らん。だが」

 白む視界を突き進んでいた背中が、ふと前のめりになる。獅子のたてがみに似た赤毛が吹雪に遊ばれたのち、彼は低く唸るような声で答えた。

「──勝利を掴むためにはお前が必要だ。我らにはもう後がない」

 リアはつい足を止めてしまった。
 感じたのは途方もない危機感と、漠然とした不安。
 吹雪を貪欲に吸い込む闇の奥、自ら体を沈めていくイヴァンの腕を、リアは咄嗟に掴み寄せていた。
 そこでイヴァンが弾かれたように振り返れば、時を同じくして我に返る。

「あ……ま、待ってイヴァン。もしかしてあなた……騙されてたりしない?」
「何だと?」
「今の言い方、私を攫う計画を立てたのはイヴァンじゃないわよね。愛し子を狙ってるとかいう、エルヴァスティから追放された悪人じゃないの?」

 直接言葉にして確かめると、イヴァンが苦虫を嚙み潰したような顔で視線を逸らした。彼としても罪人の手を借りるのは好ましく思っていない、といったところだろうか。
 だが甘い誘惑を撥ねつけるには、あまりにキーシンの状況は切迫しすぎている。強固な軍事力を誇るクルサード帝国や大公国から、ジスの聖地を含む多くの領土を奪い返すために、藁にも縋る思いでその手を取ったのかもしれない。

「そんな奴と手を組むなんて止めた方がいいわ、何を企んでいるか分からない! 私は余所者だから何とでも言えるし、不愉快だと思うけど……っ」
「っああ不愉快だ! 俺には力がない、なかったから戦に敗れた! みじめな姿を晒し同胞の不安を煽ることしか出来ない俺に、もはや選り好みしてる余裕などない……!」
「わ、私は信頼してる人が胡散臭い奴と仲良くしてる方が不安よ! 弱ってるだけなら支えてあげられるもの、何でわざわざ知らない奴にその役目を渡すの!?」

 次第に強くなる吹雪に負けぬよう、リアは声を張り上げた。彼女の切実な訴えに、イヴァンの表情は険しくなるばかり。
 互いにぜぇはぁと息を荒げる傍ら、それまでじっと大人しくイヴァンの胸元で縮こまっていたリュリュが、唐突に顔を上げた。

「……オーレリア、あれなに」
「え?」

 少年が指差す先を振り返ると、にわかに風がざわめき始める。
 どういうわけか弑神の霊木がひとりでに揺れていることを知ったリアは、不気味な光景につい後ずさった。
 その瞬間、彼女の耳飾りが明滅する。空から舞い降りた光の粒が紫水晶に集まれば、雪を蹴る小さな影が遠くから現れた。

「ウサギ……違う!」

 目を眇めて呟いたリアは、てんで的外れな予想を自ら打ち消す。ざくざくと雪を踏みしめてそちらへ向かいながら、彼女は笑顔を浮かべたのだった。

「エドウィン!」