「ようやっと子離れか」

 飲みかけの酒を噴き出し、ヨアキムはぼたぼたと机を濡らしながら視線を移す。
 そこには素知らぬ顔で杯を傾けるユスティーナがいた。昼間の泰然とした姿よりも、幾分か弛んだ雰囲気で大巫女は笑う。

「誰が親バカだ!!」
「そこまで言うとらん。はよう拭け」

 ──メリカント寺院の一室で、二人がこうして酒を酌み交わすのは珍しいことではなかった。
 かと言って毎夜飲むほど親密なわけでもなく。大抵の場合は双方の憂さ晴らしか、相談事があるかのどちらかである。
 見習いだった十代の頃から今に至るまで、ヨアキムとユスティーナは実に二十年以上の付き合いだ。当時から精霊術師として非凡な才能を持っていた二人は、半ば競うように国中を駆け巡っては各地で依頼をこなしていた。
 冬のエルヴァスティでは単純な雪かきから雪崩による人命救助まで、精霊術師の力を必要とする者が多くいる。その他にも作物の成長を促進させるための祈りだったり、悪戯好きな精霊に取り憑かれて困っている人間を助けたり──とにかく依頼の内容は幅広い。
 大巫女の候補として選ばれたユスティーナは、そういった人助けと並行して寺院の管理についても学び。
 比較的自由な身であったヨアキムは、臨時の医師として帝国軍に身を置き、戦の悲惨さをその目で確かめ。
 そうこうしている間に西方で魔女狩りが始まり──彼は元気な少女と暮らすようになった。

「初めは子どもの世話なんぞ無理だと喚いておったくせに。今じゃすっかり父親だな」
「うるせぇな。急に弟子がとんでもねぇ美形を釣ってきたら誰だって詐欺を疑うだろうが」

 机を拭きながらヨアキムが大真面目に言うので、思わずユスティーナは声を上げて笑ってしまった。忌々しげな瞳が寄越されても、こればかりは笑わずにはいられない。
 確かにあの若き伯爵は人並み外れて綺麗な顔をしている。あれがつい数か月前までキーシンとの戦で活躍していた銀騎士と聞いたときは、無意味にも影武者ではないかと疑った。
 加えて美貌はもちろんのこと、年齢や地位から見ても引く手数多であろう青年がリアに想いを寄せていると来たら、嘘だと言いたくなる気持ちもまぁ分かる。
 しかしそんな心配を、親になる予定のなかった男が言うのだから面白いのだ。

「あの子が修行に行ってた二年間、心配で心配で堪らなかったのだろう? 風の伝言を何度もやり直しさせおって。私には毎回ちゃんと一発で伝言が届くぞ? なあ?」

 ヨアキムは視線を逸らしたまま何も応えない。どうせ図星だろう。
 三か月前、リアから大公家の呪いについて助けを求める伝言が送られてきた際、ヨアキムはそれまで引き受けていた依頼を全て投げ出してメイスフィールドへ向かった。その焦り様は後世に語り継ぎたいほど愉快だったが、仕方ないと言えば仕方ないことなのだ。
 あの頃には既に、エルヴァスティから追放した大罪人が各地で目撃され始めていたのだ。ヨアキムはそれも含めて弟子の元へ急ぎ駆け付けたのだろう。

「不本意だろうが、今はゼルフォード卿に預けておくのが賢明だ。そこらの騎士より腕が立つようだしな」
「……当然だ。あんなふにゃふにゃした小僧でもハーヴェイ殿の血縁だぞ。剣の才に関しては化物に決まってる」
「貶しながら褒めるでない」
「しかしあいつのオーレリアを見る目は気に食わん! 何が銀騎士だ少しは隠せ!」

 親バカここに極まれり。幸いお前の弟子は驚くほど恋情に疎いではないかというツッコミを、ユスティーナは酒を呷ることで飲み込む。
 一方のヨアキムも杯を空にしてしまうと、盛大な溜息と共に椅子から立ち上がった。

「奴の居場所を突き止める。祈祷の間を借りるぞ」
「徹夜はしてくれるなよ、朝起きて鬼気迫る初老の男がいたら寺院の子らが怯える」
「知るか!」

 リアと暮らすようになってから、子どもに対して甘くなったことなどお見通しだ。あんな悪態をついていても、恐らく明朝までにはこっそりと退室しているに違いない。
 遠ざかる足音を聞きながら、ユスティーナは杯から手を離す。
 しんと静まり返った薄暗い部屋。未だ微かな温もりが残る向かいの椅子に、いくつかの光が現れた。
 ふらふらと揺らめく光の胞子を見詰め、ユスティーナは投げやりな溜息をつく。

「……何を考えているのかは知らんが、もはやお前の出る幕はないぞ──ダグラス」

 晴れ渡る美しい星空に一瞥を投げた彼女は、やがて迫り来る暗雲を鋭く睨み付けたのだった。