下着泥棒と鉢合わせた後、エドウィンの強い勧めでリアは表通りの宿に移ることになった。
 借りていたボロ宿とは比べ物にならないほど綺麗な内装を、リアは荷物を抱えたまま唖然と見渡す。
 受付を照らす橙色の灯の下、洒落た暖炉の側では老齢の夫婦がソファに座り寛いでいる。通りがかった遊戯室には丸テーブルがいくつも置かれ、ポーカーに興じる紳士の姿が垣間見えた。
 当然ながらリアは貴族が使う高級宿など、一度も足を踏み入れたことがない。まるで別世界にでも来てしまったような気分で、そうっと前を行く背中を窺った。

「エドウィン」
「はい?」
「あの、お金は……」

 エドウィンは柔らかな笑みと共に振り返り、そわそわとしているリアの顔をゆっくりと覗き込む。

「僕が使っていない部屋を貸すだけですから、不要ですよ」

 と言われても──その部屋とやらは、きっとリアが借りていた部屋よりも広いのだろう。一時的な避難場所として利用するにしても、何か対価を支払わなければ気が済まない。
 しかも、リアは既にエドウィンから危ないところを助けてもらった恩もあるわけだし。

「……あ。ねぇエドウィン、夜はちゃんと眠れてるの?」
「え?」
「その、ほら。不安が強いと、人って眠りが浅くなりがちでしょ。心が落ち着くようなお茶でも入れてあげるわ。そういうの得意なの」

 誰が聞いているか分からないので、リアは呪いという言葉は伏せつつ提案した。
 ちょうど先日、ハーブティーに使える茶葉やらはちみつを仕入れたところだ。ついでに神経の興奮を抑制する薬草も煮出してあったはず。本来なら料金を取って売っている薬を、エドウィンへのお礼に──できないだろうか?
 おずおずと視線を持ち上げてみると、エドウィンが少しばかり目を丸くしていた。

「エドウィン?」
「あ……いえ、お気遣いありがとうございます、リア。……言われてみれば確かに、あまり寝ていないなと思って」
「やっぱり! じゃあ後で持っていくわね」
「はい、お願いします」

 耳にじんわりと馴染むような声で言うと、彼は優しく微笑む。こんな紳士が先程、下着泥棒に躊躇なく剣を突き付けていたとは思えない。

 ──まぁ何事も切り替えは大事よね。

 リアはヘラリと彼に笑顔を返したのだった。



「──どう? 飲めそう?」

 催眠作用と弛緩作用のあるハーブティーに、はちみつを小さじ一杯。茶葉には香りづけとして、擂り潰した柑橘類の皮を少量入れてある。甘やかな香りの中に、爽やかな酸味を忍ばせることで飲みやすさが向上するのだ。
 リアも薬の調合や繕い物で夜更かしをした翌日は、このハーブティーを飲んで就寝している。これがまた嘘みたいに気持ちよく眠れるので、普段から何かと重宝していた。
 ちゃっかり自分のハーブティーも用意してきたリアは、ティーカップに口を付けながら、向かいの椅子に座るエドウィンの様子を見る。
 さすが伯爵と言うべきか、茶を飲む姿まで美しい。香りごと味わうように瞼を閉じていたエドウィンは、ふとこちらの視線に気付いて微笑を浮かべた。

「とても美味しいです。飲むと温まりますね」
「でしょ? そのお茶だけはお師匠様も気に入ってるのよ」
「……そのお師匠様は、エルヴァスティにいらっしゃるのですか?」
「ええ、多分」
「多分?」
「分からないのよ、よく国中飛び回ってるから」

 薬師としても、精霊術師としても優秀なリアの師匠は、一年中エルヴァスティ王国の各地に引っ張りだこだ。
 時には国外の辺境へ赴いて、得体の知れない薬草を摘んだり、とんでもなく不味い土産物を貰ったり──幼い頃はよく同行させてもらっていたと、リアは懐かしむように笑う。
 彼女の和やかな語りに耳を傾けていたエドウィンは、釣られるようにして笑顔を滲ませていた。

「へぇ……もしや有名な御方なのでは?」
「うーん……そうかも、頑固なおじさんってことで。私が精霊術を上手く使えるようになっても、ちっとも褒めてくれないもの」

 あっという間に膨れ面になったリアだったが、肩を竦める手前でぴたりと動きを止める。
 ──もしもエドウィンの呪いを上手いこと抑えることが出来たら、お師匠様もちょっとは私のこと褒めてくれるのでは?
 そしてあわよくば一人前の精霊術師として認めてくれるのでは、と、何とも安直な期待が胸に灯る。昔からこの単純な性格を師匠から窘められていることも忘れ、リアは「そうだ」と一人気合いを入れる。

「よし、エドウィン! 私めちゃくちゃ頑張るわね!」
「え? はい、それは、ありがとう」
「まあ今日はもう寝るけど! また明日ね、おやすみ!」

 茶器を片付けて隣室へ引っ込んだリアを、エドウィンは呆然と見送り──やがて小さく噴き出す。

「……おやすみなさい」

 ティーカップの温もりに手のひらを押し当て、静かに囁いたのだった。