群青の天穹を戴く広々とした会堂の、丸く切り取られた光の下。
 人の気配を排したことで訪れる清澄を、彼女は暫し、誰にも邪魔されることなく享受する。
 瞼を閉じて得られる心地よいまどろみに似た暗闇の外、瞳の代わりに鋭く尖る聴覚が捉えたのは、背後に迫る一つの気配だった。

「──メイスフィールドとキーシンの戦が終結したとは真か」

 擦るような足音が止まると同時に、彼女は低く尋ねる。

「はい。先程、大公国に向かっていた密偵から連絡が……これで、影の精霊も眠りに就くのでしょうか?」

 安堵と期待を含ませた穏やかな声音。
 愛弟子たる娘の玉音(ぎょくいん)は常に落ち着いていた。

「さてな。如何せん、あれは分からぬことが多すぎる。ヨアキムの手に負えぬものなど、極力触れたくないのが本音だ」
「ユスティーナ様ったら、そんなこと仰らずに」

 くすくすと鈴を揺らしたような笑い声に、彼女も喉の奥を微かに鳴らす。明り取りが次第に白雲に覆われていくのを知ったのなら、ようやく後ろを振り返る。
 ゆるやかに波打つ亜麻色の髪を靡かせた乙女は、人当たりのよい垂れ目をさらに細めて微笑んだ。

「……イネス。リアはどうしている?」
「光華の塔で穏やかに過ごしておりますわ」
「退屈に、の間違いであろう」
「……えっと」

 図星なのか、イネスは笑顔のまま何も言わなかった。
 ──仕方あるまい。あの元気な娘が大人しく出来るとはまず思っていないし、そろそろ外に出してやっても良い頃合いだろう。

「今日一日、何もなければ謹慎を解きます。リアにそう伝えておやりなさい」
「はい、ユスティーナ様」


 ◇◇◇


 メリカント寺院。
 エルヴァスティ王国において、精霊術師にならんと志す者は皆、この寺院で修業を積まねばならない。
 王国の最高顧問でありながら、寺院の責任者でもある大巫女ユスティーナ・フルメヴァーラの下に集う若き精霊術師見習いたちは、神域に踏み込むための正しい知識と心身の形成を目標に、社会奉仕も兼ねた活動に勤しむ。
 つまりは大公国や帝国で言う、修道士と似たようなものだ。イーリル教会が神の教えを学ぶ場所なら、メリカント寺院は精霊と共に生きる方法を学ぶ場所とでも言うべきか。

「……だから一応、私もここの生徒みたいなものなのよ、と」

 寺院のこぢんまりとした第一図書館の片隅で、リアは黙々と手紙を書いていた。
 寒さに(かじか)んだ手を擦り合わせ、吐息を吹きかける。途中まで書き上げた文章をぼうっと読み返しては、残った余白に何を書こうと思い悩む。

「エドウィン、最後まできっちり書いてくれるからなぁ」

 文通の相手はメイスフィールド大公国で知り合った、ゼルフォード伯爵エドウィン・アストリーだ。
 影獣になってしまう呪い、もとい影の精霊の誘惑から逃れる方法を模索した日々から、早三月(みつき)ほど。そして師匠と共にエルヴァスティへ帰郷したリアが、彼の様子を窺うために自ら筆を執ったのがふた月ほど前のこと。
 エドウィンが精霊に干渉を受けることなく、穏やかな生活を送れていることを手紙で確認したリアは、しかしてそれだけ尋ねて終わりというのも味気ないと感じて再び送り返し。それを何度か繰り返しているうちに、気付けば立派な文通になってしまっていた。
 律儀な彼のこと、忙しい執務の合間にも書いてくれているのだろう。少し控えた方が良いだろうかと遠慮が顔を覗かせれば、まるでそれを読み取ったかのように「リアからの手紙を楽しみに過ごしています」などと──。

「もう、やっぱりあの人、いろいろと慣れてるわよ絶対!」

 そう言いつつ照れてしまう自分も自分である。リアは意味もなく腿をぺしぺしと叩きながら、今朝がた届いた彼の手紙を開く。
 エドウィンらしい流麗で、少しばかり淡泊な文字。されど記された内容は、寒さの厳しいエルヴァスティでの暮らしを案じるものだったり、寺院での軟禁生活──もとい大巫女からのちょっとした謹慎処分を申し訳なく思っていることだったりと、温かなものばかりだ。
 心配性な彼に笑みをこぼしたリアは、再びペンを握っては先端をインクに浸す。

「退屈だったけど、手紙の内容を考えてるときは楽しかった、わ、と。よし書けた!」

 封筒をとじたリアは、文具を小脇に抱えて図書館を後にした。ひやりとした大理石の廊下を大股に進みながら、厚手のショールを羽織る。
 ──白い吐息を残して右手を見遣れば、一面の銀世界が視界に広がった。
 晴れ渡った青空から降り注ぐ粉雪が、陽光に照らされて煌めく。あちらこちらへ寄り道しながら彼らが向かう先は、人と精霊が住まう神秘の都エルヴァスティ。
 白い絨毯の上、ずらりと立ち並ぶ銀鼠の煉瓦。雪かきを終えた人々の手によって、鮮やかな屋根の群れが顔を出す。小高い丘の上に立地したメリカント寺院は、王都の景色を一望できる数少ない名所としても有名だった。
 帰郷してからというものの、この景色を見るたびに文通相手のことを思い浮かべてしまう。今は群青を宿している空が、一日が終わる頃に淡い紫を滲ませていくときなどは、特に。

「リア? そんなところに立ってたら風邪引いちゃうわ」

 ぼうっと柱廊に立ち尽くしていたリアは、穏やかな声で我に返る。
 王都の絶景から意識を外せば、そこに親しい友人が立っていた。

「イネス! おはよう!」
「おはよう、今日もお手紙を書いていたの?」
「ええ、さっき書き終わったわ!」

 おっとりとしたイネスの笑顔に釣られて抱きつき、リアはふわふわと揺れる亜麻色の髪に顔を埋める。仄かに鼻腔をくすぐる薔薇の香りを堪能したところで、イネスの細い腕が背中に回された。
 暖を分け与えるような抱擁を交わせば、頭上から鈴の音を転がしたような笑いがもたらされる。

「リアったら、香水なら貸してあげるっていつも言ってるのに」
「いいの、私は香水とか、何か……似合わないから、イネスのを嗅ぐだけで」
「そんなことないわ。明日にでも一緒に買いに行く?」
「え? でも私まだ謹慎が」

 見上げれば薄氷色の、ちょっとばかし得意げな瞳がリアを迎えた。

「光華の塔での謹慎は今日までですって。ユスティーナ様が仰っていたわ」
「ほんと!? 良かったー……でも今回はいつにも増して長かったなぁ」
「ふふ。よく我慢できました。あ、でもまだ精霊術は使っちゃ駄目よ」
「はぁい」

 疲労感たっぷりに返事をしたリアの頭を、イネスは優しく撫でたのだった。