メイスフィールド大公宮から北上し、いくつかの都市を超えた先。文明の景色が消えるのに併せて現れるのは、脈々と連なる青き山影だ。
 元々キーシンの民が暮らしていたこの地域には、運命の女神ジスにちなんだ神殿が点在する。そしてその周囲は漏れなく神域と見なされるばかりに、かつてのキーシンでは神殿を優に超えるような建築を禁じていたそうだ。
 ゆえに少しばかり殺風景でありながら、古の神聖時代を彷彿とさせる大自然が見る者を圧倒する。
 そして、鬱蒼とした森林の最奥──バザロフの遺跡は重苦しい沈黙の中、樹冠の影に覆われて鎮座していた。

「……何ここ……」

 淀み、停滞した空気にリアは二の腕を摩る。
 エルヴァスティも緑豊かな国として有名だが、かの地にはいつも爽やかな風が吹き抜けている。木々の下であっても細々と陽光が降り注ぎ、清澄な小川には水を求めて様々な生き物が集う。
 このバザロフの遺跡周辺には、そういったリアにとっての当たり前の景色がなかった。
 陽光を完全に遮る分厚い樹冠、ぼろぼろの幹は大きな口を開けて叫ぶ人間の顔のようだ。巣穴に住まうのは愛らしい栗鼠(りす)などではなく、糸を張り獲物を待ち侘びる(まだら)蜘蛛。枯渇した小川の底には、朽ちた枝葉がこんもりと積もっている。

「これも影の精霊の影響でしょうか?」
「……そうかも。四大精霊の気配がないわ」

 豊かな森林に多く集う水と風の精霊、それらの土台となる地の精霊も、バザロフの遺跡が放つ負の気を嫌ったのだろう。想像していた以上に影の精霊は強烈な力でこの一帯を支配しているようだと、リアは改めて気を引き締めた。
 エドウィンと共に後ろを振り返れば、そこには茶髪のウィッグを装着した青年──サディアス皇太子と、三人の護衛騎士がいる。予定では後ろの三人だけがリアたちの調査に同行するはずだったのだが、気付けばサディアスが素知らぬ顔で馬車に潜り込んでいた。先日の大公宮での騒動以来、またもや騙された護衛騎士たちが発狂したのは言うまでもない。

「じゃあ、サディアス様はここで待っていてくださいね」
「はーつまらない、僕も怪しい廃墟の冒険とかしてみたかった」
「なりません殿下、御身に何かあれば帝国の未来に差し支えます!」
「今回ばかりは単独行動をお控えいただきたく!」
「どうかわたくしどもの目が届く範囲での行動を!!」
「はいはい、言ってみただけだよ」

 くわっと鬼の形相で注意を促す護衛騎士に、サディアスは何ら応えた様子もなく手を振る。こんな自由奔放な主君に、生真面目そうな三人はいつも振り回されているのだろう。少々不憫だ。
 サディアスたちには森の入り口付近で待機してもらうことにした。調査を行う時分は明るい昼間に限定し、日が暮れる前には彼らの元へ戻る手筈になっている。
 ──あんまり時間は掛けられないわね。夜になればエドウィンの姿が変わっちゃうかもしれないし。
 ここは言わば、エドウィンを誘惑しようとしている張本人の縄張り。彼が自ら神殿に足を踏み入れ、影の精霊が活発化する夜半になれば、四大精霊の加護が打ち砕かれる可能性は否定できない。

「……よし! エドウィン、行きましょ! 先に私が入るから、大丈夫そうだったら合図するわね──あ! その前に」
「はい?」

 大股に神殿へ向かおうとしたリアは、勢いよく踵を返した。戸惑い気味のエドウィンの顔色と、首から掛けているアミュレットを確認しては、どちらも問題なさそうだと頷く。

「眩暈はしてない? 獣に変わりそうな予兆とか」
「今のところは何も。ただ……」

 リアの気遣いに微笑んだ彼は、ふとバザロフの遺跡を見遣る。釣られてリアも振り返ってみれば、蔦や枝葉で散らかった階段の上、四角く切り取られた漆黒の戸口から微かな風気(かざけ)を感じ取った。

「……少し落ち着きませんね。耳の辺りがくすぐったいような」
「あ! それ、精霊が話しかけて来てるのかも。私もたまになるの」
「えっ」
「アミュレットを握ると良くなると思うわ、ほら」

 不穏な返答にたじろぐエドウィンの両手を持ち上げ、ぎゅっとアミュレットを握らせる。暫しお互いに見詰め合ってから、リアは「どう?」と笑顔で尋ねる。するとエドウィンが何かに気付いた様子で眉を開いた。

「本当だ、気にならなくなりました」
「良かった。遺跡の中ではずっと握ってた方がいいわね」

 二人がなごやかな会話をする後方、じっとそのやり取りを眺めていた皇太子と護衛騎士は、ちらりと顔を見合わせ。

「見たまえ諸君、戦場の鬼神こと銀騎士エドウィンが骨抜きにされる様を」
「まことに……」

 ぼそぼそと頷き合った後、エドウィンが振り向くや否や姿勢を正したのだった。
 そんな彼らの様子に気付かぬまま、リアは一人頬を叩いては気合いを入れる。崩れかけた石造りの階段を一段抜かしに登っては、開け放された入口の前に仁王立ちした。
 ふわり、生温い風がリアの三つ編みの先を揺らす。熱のこもった、息苦しさを覚える風だ。外へ追い返すような動きをしながら、その実、近付く者を誘き寄せる不思議な香りを纏っている。
 ──この匂い、どこかで嗅いだ気がする。
 しかし、おぼろげな記憶を手繰り寄せるより先に、リアは闇の奥から迫る凄まじい威圧感に目を見開いた。