──メイスフィールド大公宮、公子セシルが住まうアズライト宮にて。
 四大精霊のアミュレットづくりに集中しているリアを伯爵邸に置いて、単身エドウィンは大公宮にやって来た。目的は言わずもがな、バザロフの遺跡へ向かう旨を公子に伝えるため。その上で現大公デリックに正式な許可を得ようと、考えていたのだが。

「どう思うトラヴィス」
「どうとは」
「私が記憶しているエドウィン・アストリーは何に於いても冷静で欠点を根こそぎ抜き取ったような男だ。間違っても歩きながら壁にぶつかったりしなかったのに。奴には何かとっても気がかりなことがあるに違いない」
「なるほどそれは重症でしょうなぁ」

 全部しっかり聞こえている。エドウィンはぶつけた額を摩りながら、ゆっくりと後ろを振り返る。そこには残念なものを見るかのような目で、セシルとトラヴィスがこちらを見詰めていた。
 公子の証言通り、少々上の空で廊下を歩いていたエドウィンは、突き当たりの壁にそのまま衝突して崩れ落ちた。周囲にいたメイドや文官が絶句し、咄嗟に見ない振りを決め込んだのがかえって恥ずかしい。

「……セシル殿下。こちらにいらしていたのですか」
「うむ。エドウィン、一応聞いておくが体調不良ではないな」
「…………はい」

 これは決して呪い──もとい影の精霊による誘惑が起因してのことではないので、正直に頷く。
 公都に戻ってから今日に至るまで、エドウィンは人知れずこうした小さな失態を何度も犯していた。
 からのティーカップをスプーンでずっと掻き混ぜていたり、読んでもない書類にサインをしかけたり、気分転換のつもりで手に取った本をページも捲らずに小一時間眺めていたり。戦場帰りで疲れているのかとも思ったが、よくよく考えれば自分がうっかりな行動をしてしまうのは、決まって彼女のことを考えているときだ。
 ──言うまでもなく、何から何まで危なっかしい精霊術師見習いのことである。
 陽だまりのような明るい笑顔に、常に前向きで素直な言葉。
 大公宮で獣になってしまった夜、必死に名を呼ぶ泣きそうな声。
 薬師としての務めに付け入り、抱き締めた細い肩。
 あと、これは極力思い出さないようにしているが、黒い獣になったエドウィンをぬいぐるみよろしく胸に抱きかかえてしまう無防備さ。あれは非常に困る。大変困る。と言いつつ当時の感触やら仄かな甘い香りを未だ忘れられない自分が情けない。
 ──確かリアが淹れてくれたハーブティーと同じ匂いがしたような。先日、屋敷で彼女を抱き寄せたときも微かに香って、待てまた考えてるぞ。気を抜くとすぐこれだ。

「全く、薬師のことでも考えていたのか?」
「え」
「やっぱりこいびとではないか! 私に嘘をつくなど見損なったぞエドウィン!」
「ちょっ、殿下」

 ぷりぷりと怒る公子を宥める傍ら、聞き耳を立てていたメイドが次々と打ちひしがれていく様は、残念ながらエドウィンの視界に入っていない。
 苦渋の末にセシルを抱き上げてしまえば、ひとまず恋人がどうのこうの騒ぐのはやめてくれた。ぽこぽこと小さな手に背中を叩かれながら一息つくと、一連のやり取りをぼうっと眺めていたトラヴィスが唇の端を吊り上げる。

「で? 誉れ高き銀騎士が頭に衝撃を与えんと空想から戻って来れんほど夢中なオーレリアは一緒ではないのか」
「う……」

 壁にぶつかった時点で、自分が相当手遅れな状態に陥っていることはバレているだろう。エドウィンは無闇に否定することはせず、否、十分その通りなので渋々と頷いた。

「今日は僕一人で参りました。バザロフの遺跡についてお話がありまして」
「バザロフ?」

 そこでようやくエドウィンへのからかい混じりの瞳を瞬かせ、セシルとトラヴィスは不思議そうに顔を見合わせたのだった。



 アズライト宮の一室に移動したエドウィンは、先日リアから聞いた話を二人に語った。
 大公家の呪いは、エルヴァスティにおける精霊の誘惑──俗に言う「神隠し」の一種であること。そしてそれが世間に認知されていない影の精霊によるものではないかとの推測を添えて。

「……影の……それはつまり、エルヴァスティの精霊術師でも接触したことがない神的存在、ということか?」
「恐らく。バザロフの遺跡を棲み処にする影の精霊が、付近の戦場で戦っていた僕を見初めたのかもしれないとリアは言っていました」

 メイスフィールド大公国とキーシンの境目を描いた地図上、件の遺跡と自身が五年ほど滞在していた戦場を一つずつ指差していく。ついでに初代大公ハーヴェイが活躍した征服戦争の主な戦場と、姿を消した大公家の者らが過去に赴いた戦場も確認する。
 印の代わりにチェスの駒を置いて行けば、それらの程近い位置関係にセシルとトラヴィスが各々驚きを見せた。

「そんな……おじい様も影の精霊にかどわかされたのか……? 急死ではなく?」
「ハーヴェイ様についてはまだ何も分かりませんが……決して無関係とは思えません」

 もしも二十七年前、初代大公がバザロフの遺跡で命を落としていたのなら、その兄であるクルサード皇帝が遺跡を封鎖した理由も想像がつく。謎の精霊が人々に害を及ぼさぬように、そして大公家がイーリル教会から無用な疑いを掛けられぬように、「文化遺産の保存」という名目でかの地を閉ざしたのだ。
 残念ながら僅か二年後に大規模な魔女狩りが起きてしまったが──大公の死の謎は未だ守られたまま。

「セシル殿下、我々はこの遺跡に向かってみようと思いま……」

 そのとき、エドウィンはふと眉を顰める。外が妙に騒がしい。
 きょとんとしている公子の傍ら、どうやらトラヴィスも異変に気付いたようだ。

「様子を見てきます。トラヴィス殿はここに」
「いや、待て。奴かもしれん」
「奴?」

 誰のことだと問うより先に、耳を擽る程度だった騒々しさが確かな輪郭を持ち始める。
 至極鬱陶しげな顔で廊下へ出たトラヴィスを追い、エドウィンはそっと階段下の大広間を覗き込んだ。


「──エドウィン・アストリーを出せ! ここにいるのは分かっておる!!」