精霊術師には掟がある。
 床にきちんと正座した幼い少女は、そう言って人差し指を立てる師匠を見上げていた。
 あどけない顔に剥き出しの好奇心を宿す弟子を、師匠は不安たっぷりに一瞥し、されど厳しい声色で続ける。

「これを守れないようなら弟子の称号は剥奪だ」
「え!」
「言っただろうが。お前は精霊術師の素質はあるが、絶望的に不向きなんだよ。主にこの掟を守るか否かでな」

 よく分からない、とリアは眉を顰めた。
 早く掟とやらを話してくれと言外に訴えれば、師匠は溜息交じりに肩を竦めてしまう。

「掟の前に復習だ。精霊術師は毎朝」
「日の出ぐらいに起きる!」
「術の供物は」
「血じゃなくてできるだけ髪ですませる!」
「精霊で」
「人を傷付けてはならない! 彼らは日々の暮らしによりそうもの!」

 言われるがままに丸暗記したので深い意味は分からないが、とりあえず反射で答えられるようにはなった。
 どうだと自慢げな顔をするリアを無視して、師匠はひとまず合格と言わんばかりに頷く。

「じゃあ掟だ。復唱しろ」
「うん」

 そこで師匠は膝をつき、少女の小さな頭に片手で乗せる。伸ばし始めた黒髪をくしゃりと掻き混ぜ、彼はひどく静かな声で告げた。

「──精霊の()に応えてはならない」


 ◇◇◇


 温もりに包まれて目を覚ますと、そこに淡い輝きを纏う菫色の玉眼があった。
 朝の陽射しは藍白の髪を透き通し、端正な顔立ちに青い影を生む。
 少しばかり硬い指先に目許を擽られれば、ようやく眠気が薄まっていく。

「……ん……? エドウィン……?」
「リア、良かった……寒くはないですか?」

 どういう意味だろうかと呆けていると、エドウィンの後方にもう一つ人影を見付けた。あれは昨晩、途方に暮れていたリアとエドウィンをここまで運んでくれたトラヴィスという騎士だ。
 二人とも何処か不可解な面持ちでこちらを見下ろしており、困惑気味に目を瞬かせたリアは、ひとつ大きなくしゃみをする。
 そこで自分が毛布に包まれたまま、カウチの上に寝そべっていることに気が付いた。

「もう朝……?」
「ええ。珍しく起床が遅かったので様子を見に行ったのですが、その……あなたの周りに、何か光が……」

 どう言い表せばよいか分からない、といった顔だった。エドウィンの言葉を暫し吟味したリアは、やがてハッと息を呑む。

「もしかして水の精霊が寄ってきたのかな」
「……寄ってきた?」

 訝しむ問いに頷き、リアは寝起きの気怠さを押して身を起こす。すっかり高くなってしまっている日を見ては、師匠の言いつけを二つも破ったのかと頬を掻きつつ。

「たまに勝手に寄ってくる精霊がいるの。お師匠様が、そういう精霊は見ない振りをしろって」
「勝手に……とは、術で召喚していない精霊ということですか?」
「うん、最近ちょっと多くて」

 髪や血などの供物を用意していないうちから集まってくる精霊は、召喚に応じてくれる精霊よりも些か行儀が悪いのだと師匠は言っていた。
 恐らく昨日の晩に二度も水の精霊を召喚した上に、一度は血まで使ってしまったため、匂いに釣られて他の精霊が集まってしまったのだろう。
 リアは切り傷が残る親指の腹を、そっと人差し指と擦り合わせた。

「……あ! でも大丈夫よ、無視し続けてたらそのうち減るだろうし」
「ですが……」
「それよりほら、今は呪いについて考えなきゃ。昨日どこまで話したっけ?」

 ぼさぼさの長い髪を整えつつ尋ねれば、エドウィンが眉間の皺をほどく。未だ心配している雰囲気は残せど、彼はトラヴィスと共にこれから調査すべきことを説明してくれた。


 いつも通りの三つ編みが完成する頃、リアはローテーブルの上に展開された地図に視線を落とす。
 エドウィンとトラヴィスが言うには、やはり大公家で呪われた者たちは北方の戦場に赴いたことがあったという。教えてもらった戦場の場所に多少の誤差はあるものの、総じて大公国とキーシンの境目辺りで血が流れていた。

「ねぇエドウィン、大公国とキーシンは昔から仲が悪いの?」
「征服戦争が始まるまでは、それほど敵対視していなかったと聞いていますが」
「国境沿いに限っては、取るに足らん小競り合いがあったぐらいだ」

 二人の話に相槌を打ちながら、ふとリアは地図の一点に視線を留めた。
 大公国領内だが、名前の響きがどことなく異国の空気を感じさせる。征服戦争で大公国が勝ち取った土地なのかもしれない──。

「……あれ。バザロフ……って」

 バザロフ。それはリアが旅へ出る前、師匠から立ち寄ることを禁じられた地の名だった。